阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年6月23日
「いのちの水」 
ヨハネ4章13-14節

 今年も半年が過ぎようとしています。今年の夏至は昨日、6月22日でした。冬至から日照時間が長くなり、昨日までは日没までの時間が長かったのですが、これからだんだんと日暮れが早くなっていきます。また、これから梅雨をむかえ、暑い盛夏を迎えて行きます。
神様は、私達が生きていくために必要なものを備えていてくださいます。暑い夏に水がなかったら生きていくことはできません。また、水がなければ作物や稲も育ちません。作物が実らなければ人は生きていけません。水も太陽もなければ作物は収穫できないのです。
あまり知られていませんが、江戸時代後期、西難波村と浜田村で、たびたび浜田川の水利を争い、水争いが起こっていました。
浜田村の世話役が捕らえられ、10名も牢死したという史実が残っています。水利のために命を掛けなければならなかったことが身近にあったのです。それほどに水は大切なのです。
さて、主イエスはご自身の救いをあらゆる人に伝えて下さいました。主イエスは、ユダヤからガリラヤへ行こうとされていました。ユダヤとガリラヤの間にはサマリアがあります。当時のユダヤの人々は、ユダヤとガリラヤを行き来するのに、わざわざ中央を流れるヨルダン川を渡って大きく迂回してサマリアを通らないようにして行き来していました。   ユダヤ人はサマリア人とは決して接触しませんでした。もともとユダヤ人もサマリア人も同じユダヤ民族でした。しかし、BC772年に、北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリアに連れ去られてしまいました。サマリア地方にはアッシリアの人々が移住してきて、サマリアに残っていたユダヤ人とサマリア人が結婚するようになり、混血の民となったのです。一方ユダヤに住んでいた人々もバビロンに連れ去られたのですが、結婚はせずに、ユダヤ人の血統を守りました。それで、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑して、主イエスの時代には付き合う事も話すこともなかったのです。
そのような状況の中で、ヨハネ4章4節には、「サマリアを通らねばならなかった」とあります。主イエスはなぜ、サマリアを通らなければならなかったのでしょうか。
サマリアのシカルという町の、ヤコブの井戸で一人のサマリアの婦人と会うためであったと考える事ができるのです。主イエスは旅の疲れで井戸のそばで座っておられました。時刻は昼の12時頃で暑い最中です。
そこに一人の婦人が水を汲みにやってきました。普通水汲みは早朝にするものですが、正午頃にやって来ました。事情のある人でした。
主イエスは、「水を飲ませてください」と話しかけられました。この婦人は大変驚きました。ユダヤ人の男性がサマリア人の女性に話しかける事はなかったからです。
どうしてこの私に水を飲ませてくれと頼むのかと、疑問をぶつけると、主イエスは、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハネ4:10)と言われました。この婦人は主イエスの言われることはあくまで水のことだと思っていました。ですから、ヤコブから伝わっているこの井戸よりも深い井戸を持っておられるのかと聞いたのです。
主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13、14)とお答えになりました。この婦人は主イエスが語られる水は、この世の水の事だと思いました。もうここまで水を汲みに来なくてよいように、その水をくださいと願いました。主イエスはこの婦人にあなたの夫を連れて来なさいと言われました。婦人は「夫はいません」と答えました。主イエスは「あなたには5人の夫がいたが、今いるのは夫ではない」と指摘されたのです。この婦人はなにもかも言い当てられて本当に驚きました。
主イエスが語られたのは、人の魂の奥深くから湧きだす霊の水、聖い御霊の事でした。
主イエスは、真の礼拝をする時が来ている事を示され、神は礼拝者を求めておられると語られたのです。霊と真をもって神を礼拝する者を求めておられるのです。
人は、だれでも心の中に渇きを覚えて生きていきます。満たされない思いを持ち、この世の何かが自分を満たしてくれると思って求めていくのです。しかし、「銀を愛する者は銀に飽くことなく 富を愛する者は収益に満足しない」(コヘレト5:9)とあるように、この世の財産を多く蓄えても何をもっても満足することはできないとあるのです。
なぜなら、この世のものは、真の命をもたらさないからです。世のものは移り変わり、いつしか失われてしまうのものだからです。
人が本当に満たされるのは、主イエスが与えて下さる水を飲むことによるのです。
主イエスは、祭り、すなわち仮庵の祭りの最終日に立ち上がって、大声で、「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37,38)と言われたのです。祭りの最後の大事な日に、大事な事を大きな声で叫ばれまし
た。わたしのところに来て飲むとは、主イエスを信じて心に受け入れる事です。
主イエスは、渇いている人はだれでも来なさいと招いておられるのです。自分の心を探るなら、渇きを覚えている自分を見出すのです。私達は、そのままの心を主イエスに打ち明ければよいのです。
主イエスは、私達のことをすべて知っておられます。弱さも罪も足りなさもすべてをご存じであって、そのまま受け入れ愛して下さいます。そして、あのサマリアの女性に会うためにサマリア通られたように、私達に声をかけて下さるのです。
主イエスの方から私達を尋ねてくださるのですから、私達は心をそのまま差し出して主イエスを心にお迎えする時に、悔い改めに導かれ、清められ、心の一番深い所から命の水が絶えず湧き出て心を潤し、満たし力にあふれさせて下さいます。
「わたしが与える水を飲む」という事は、主イエスを、救い主として心にお迎えし、心の王座にお迎えすることです。
主イエス様は、御自分が十字架に架かる事で、全世界の罪の贖いを完成してくださいました。私達は、主イエスを救い主として信じた時、罪が赦されたのです。罪を赦していただき、これからももし罪があるなら、すべて赦していただけることを信じます。信じ切る時に、私達の心の奥深くから聖い御霊が溢れ流れるのです。
それは、外からではなく内からであることを覚えなくてはなりません。
人と会いたくなくて、昼に井戸に水汲みに来た女性に、主イエスが語り掛け、ご自身がメシアであることを示して下さいました。この女性は水甕を置いたまま町に行き、人々に主イエスに会ったことを伝えました。
主イエスは町から食物を買ってきた弟子たちに、「神の御心を行う事が私の食べ物である」ことを教えられたのです。内から生ける水が溢れる時、御心を行う事が大きな喜びとなるのです。
町の人々は、この女性を通して主イエスが救い主である事を信じました。そして、さらに主イエスの御言葉を聞いたのです。
彼らは、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(ヨハネ4:42)と語りました。
主イエスの御言葉を聞き、主イエスを信じることが出来たのです。
一つの伝道のパターンが教えられています。私達も伝えます。しかし、更に主イエスの御言葉を聞いて、「信じたのです」と言う人がいたなら、どんなに素晴らしいことかと思います。
主イエス様は私達の許を尋ねて下さいます。主イエスを心から信じ、委ね、自分の心の奥深くから命の水が溢れ流れ、主イエスの尊さ、救いの素晴らしさを賛美し続け、証し続けていく喜びの信仰によって進んでいきましょう。


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