阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年6月30日
「信仰によって」
ヘブライ11章4節

 主イエスこそ唯一の救い主であることを信じ、心にお迎えしてから、私達は目に見える所によらないで、信仰によって歩む者と変えられました。
「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからである」(Uコリント5:7)とあるように、目に見えるもの、この地上のものは儚く過ぎ去っていくもので、頼りにはなりません。見えないものは永遠に存続するのです。
聖書は、信仰によって生きるようにと勧めているのです。
また、「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ1:17)という御言葉は有名です。ハバクク書の御言葉が引用されているのですが、この御言葉は、ヘブライ10:38にも引用されています。
「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とあります。
ここでは、信仰によって生きるということが教えられています。人が義とされ救われるのは、イエス・キリストの十字架の贖いによるものであり、恵みにより信仰によります。救われた者は信仰によって生きるのです。そのことをヘブライ書11章では旧約聖書の人々を通して教えています。
創世記に記されているアベルがまず紹介されています。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」(ヘブライ11:4)とあって、アベルは正しい者、義人であることが記されています。アベルはその信仰によって義と認められたのです。
創世記4章を読むと、カインとアベルの出来事が記されています。
カインとアベルは、アダムとエバの息子たちでした。兄のカインは地の産物を献げ、アベルは羊の初子を献げました。神は、アベルの献げ物を受け入れ、カインの献げものには目を留められませんでした。
カインは激しく怒り、顔を伏せました。神は、カインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(創世記4:6、7)と語られたのです。恐ろしいことに、カインはアベルを呼び出して殺してしまいました。ありえない事が起こったのです。罪を治められない人の悲しい姿です。      
私達は、この出来事を通して、神が受け入れて下さるのは、献げものそれ自体ではなく、献げる者の心であることを知ることができます。
アベルは羊の初子、それも最上のものを選び、献げました。それは、神に対する心からの敬虔な思い、礼拝、愛の表れでした。神を崇め、ひれ伏す信仰の告白の献げものだったのです。
ホセア書に、神がお喜びになるのは、「いけにえ」ではなく、愛であるとあります。
「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)とあるのです。
神がお喜びになるのは、愛だとあります。愛による献げものを喜ばれ、神が素晴らしい愛なる神であることを知るようにと、求めておられることが分かります。
私達は、神をどのような方であると考えているでしょうか。ヘブライ11:6には、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」とあります。
これは、神が存在するかしないかということだけではなく、神がどのようなお方であるかを知らなければならないということなのです。
私達は神が愛であることをまず知らなければなりません。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9、10)
私達が罪に死んでいた時に、御子キリストをこの世に遣わされ、十字架の贖いによって、命を与えて下さり、生きる者としてくださいました。
そして、私達に惜しみない愛を注ぎ、恵みに満たし続けてくださるお方である事を知らなければなりません。
私達が生きている限り、恵みにより良い物を与え続けて下さるのです。
神が良い方、それも天の良いお父さんとして私達を愛して下さる事を知り、信じるなら、いつもすばらしい報いがあることも確信できるのです。
ヘブライ11章1節には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です」とあります。
この手紙が書かれたのは、この手紙を読んだ人が、持っている信仰を確かにするためでした。信仰の創始者であり、またその完成者である救い主イエスに心を向け、目を向けさせるためでした。
信仰とは、「望んでいる事柄を確信し」、「見えない事実を確認する」事とあります。これはヘブライ人の特徴のある表現の方法で、同じ意味を二つの表現方法で表しています。ですから、「望んでいる事柄を確信する」と「見えない事実を確認する」とは、同じ意味と考える事ができます。望んでいる事柄、見えない事実とは、天の祝福、霊的な祝福、永遠の救いであり、それらは目に見えないものです。永遠に存続するものです。
私達は何を望むでしょうか。地上のものではなく、天の見えないものに目を注ぎたいのです。地上の事はすべて神様が添えて与えて下さいます。生きる限り、満たされ続けます。
私達は、神がすばらしい愛の神であり、天の父であることを信じ、このお方が常におられることを信じる事、神を求める者には必ず報いてくださる事、これらの事を確信し、日々を生きることが信仰によって生活することなのです。
「神に近づく者」、「御自分を求める者」という言い方も同じ意味なのです。
私達は、神がいつも共にいてくださる事は知っています。しかし、私達も神を愛し、神に近づき、神ご自身を求めていく必要があるのです。それが信仰によって生きることにつながるのです。
私達は、自分自身の信仰について絶えず探る必要があります。自分に都合の良い信仰生活を送っていては、いつしか迷い、道を誤ることがあるかもしれません。主イエスから目を離すからです。
私達は毎日どのように生きているかを考えなくてはなりません。私達が神に近づいているだろうか、神ご自身を求め続けているだろうかを考える必要があるのです。
救いと祝福の手を常に差し伸べて下さる、その神の御手をしっかりと握りしめ、私達も神と共に歩むことを日々決断していくなら、天からの豊かな祝福に満たされるすばらしい体験をし続けるのです。
「人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:8)
神が共におられる事を感謝し、わたしたちも神と共に歩む信仰を、神はお喜びになるのです。
「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」(ヘブライ11:4)不思議な御言葉です。死んでしまった人がまだ語っているとあるのです。
主イエス様にも「正しい人アベル」と呼ばれたような人物なのに、兄に殺されなければならなかった。悲劇的な死を遂げたアベルですが、死んで終わりではありません。その信仰の姿勢を今も表し続けているのです。声では語ることが出来なくても、その信仰は語り続けられているのです。神と共に歩む信仰の人にもたらされる祝福は、この世の報いではなく、天における永遠の報いです。神の国を受け継ぐ者とされている事を喜び、感謝し、この世にある時も、天に移されてからも、信仰によって語る者であるように、日々祈り神に近づきましょう。


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