阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年7月7日
「わたしの助けは」
詩編121編1-8節

 詩編120編から136編まで、エルサレムに巡礼する人たちによって歌われた「都に上る歌」と呼ばれている詩編が続いています。
ユダヤの三大祭である、過越し、五旬節、仮庵の祭りには、国内の人も、外国に住んでいる人も礼拝のためにエルサレムに上ってきました。
主イエスの両親も、過越際には毎年エルサレムに旅をしたという記事がルカ2章にあります。主イエスが12歳の時もエルサレムに上って行ったのですが、祭りが終わってから主イエスは両親と共に帰らず、そのまま神殿に残っていました。一日帰路に就いた時、マリアとヨセフは、だれかと一緒にいるだろうと思っていた主イエスがいなかったので、心配して探し回り、エルサレムに戻って神殿にいる主イエスをやっと探し当てました。その時主は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われました。母マリアはこれらの事を心に納めて、ナザレに帰って行ったのです。
ユダヤ国内に住むユダヤ人だけではなく、外国に住むユダヤ人は大勢いました。彼らは信仰や、習慣が違う社会で生き、なにかと苦難が多くありました。都上りの最初の詩編は、「苦難の中から主を呼ぶと 主はわたしに答えてくださった」(詩編120:1)という言葉です。
平和に過ごしたいと願い求めても、好戦的で戦いを挑んでくるような人々の中で生きていく苦悩を歌い上げています。
苦しみの中にあっても、主は答えて下さるお方であると、信じ告白できるのは幸いな力です。
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(詩編1211、2)
これから長い旅に出る時、誰しも期待と不安を持つものです。エルサレムに行き、神殿で礼拝をささげるという喜びと期待がある一方、長い旅をするという困難や不安があります。
旅の途上で怪我や病気はしないだろうか、強盗が襲ってくることはないだろうかなどと、さまざまな不安があったのです。また、個人的な問題を抱えている事も多かったのです。
しかし、巡礼者は、すでに答えをもっていました。
はるかにエルサレム近郊の山々を見上げながら、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」(2節)
天地を造られた創造主が必ず助けて下さることを信じていました。
これほど安心なことはありません。
121編の1−2節には、「わたし」は山々を仰ぐ、「わたし」の助けはどこから来るのか、「わたし」の助けは来るというように、「わたし」が告白しています。
3節からは「あなた」ということばが使われています。3節からは、巡礼者を送る人々の祈りと祝福と信仰の言葉が記されています。
主は、あなたの足を支えて強くして下さる。険しい旅路にあっても足がふらつかないように支えて下さる。必ず歩き通してエルサレムに到着できると励まします。
また、神は、まどろむことも眠ることなく守り続けて下さる。
人は睡眠をとらなければ弱ってしまいます。24時間起きている事は難しいと思います。ましてやそれを何日も続けることは不可能です。
神がまどろむこともなく眠ることもないという表現は、人が分かりやすいように表現したのです。いつでも守り支えて下さるお方なのです。
「あなたを覆う陰、あなたの、右にいますかた。」(5節)
強い日差しの中を歩いて旅をするのは苦しいものです。現在でもイスラエルに行くときは日除けの帽子や、日焼け止め剤を持参する必要があるでしょう。
強い日差しを防いでくれる影があったら嬉しいものです。
預言者ヨナは、二ネべに遣わされ、宣教によって悔い改めた二ネべがどうなるか見ようと思って、二ネべの東の方に小屋を作って座っていました。日差しがきつくて苦しかったのです。神は、彼の苦痛を救うためにとうごまの木を伸ばして日陰を造って下さいました。ヨナはこの事を大変喜びました。日影がありがたかったのです。
しかし、それは一夜限りでした。すぐに枯れてしまったのです。神が二ネべを惜しまれることをヨナに教えるための日陰でした。それにしても、日陰はありがたいものなのです。
また、この方はあなたの右におられる方とあります。
主は、私の「右にいます方」です。右とは、より強い力、権威を表します。また、力と祝福の源です。
イザヤ書に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け わたしの救いの右の手であなたを支える」(イザヤ41:10)とあります。
主の右の手とは、恵みの右の手であり、救いの右の手であり、勝利の右の手です。しかもこれらの約束は強い意味で語られていて、主が全力を尽くして支えられるという御言葉なのです。
昼、太陽があなたを撃つことがなく、夜、月もあなたを撃つことがない。これは、昼も夜も守られるという事です。暑い太陽からも、古代では、人の精神に大きな影響を与えると信じられていた月からも守って下さると告白しているのです。
7節からは、祝福の祈りの言葉が続きます。
「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように」(7節)
あなたの魂を見守るとは、あなたの命を守るという意味の言葉です。どこに行こうと、どこにいようと永遠に守り支えて下さるのです。
私達はエルサレムの神殿に巡礼することはありません。主イエス・キリストがたった一度ご自分を罪の贖いの犠牲としてささげて下さったことで永遠の命をいただくことが出来たからです。
私達にとって、この詩編は、イエス・キリストを信じる者の信仰の告白であり、確信となったのです。
人生は旅、それも天国を目指す旅と考えることが出来ます。
私達がこの世でさまざまな困難に喘ぐことがあっても、主は不眠不休で守り助けて下さるのです。私達から目を離さず、勝利の右の御手をもって支え続けてくださいます。
人が苦しむことの一つに、孤独という事があります。誰からも理解されず、受け入れられず、孤独にさいなまれるという事があるかもしれません。主イエスを信じているのに、物事がうまく進んでいかず、戦いが続いて疲れてしまう事があるかもしれません。丁度、太陽と月に撃たれてしまったような感じです。
たとえ、人が受け入れてくれないと感じても、わたしたちは孤独ではありません。こんなにも懇ろに主は御言葉をもって励まして下さるのです。
「あなたの出でたつのも帰るのも 主が見守ってくださるように。」というのは、必ず見守って下さいますという意味です。
私達の全生涯を守り、勝利の右の手で祝福に満ち溢れさせてくださるのです。私達には、主イエスの祝福と勝利が今も、これからも、永遠にいただけるのです。
私達が信じているのは、天と地を造られ、それを治めておられる神です。生きておられる神です。私達の罪を赦し、愛し、守り支え続けて下さるお方です。
ある人が自分の生涯を振り返った時、いつも主が共におられて足跡は二つだった。しかし、一番苦しく辛かった時、足跡が一つしかなかった。それで、「主よ、いつもあなたが一緒でしたのに、どうしてあの時一緒におられなかったのですか」とお聞きすると、「愛するわが子よ、あなたが苦しい時に捨てるはずがない。それは私があなたを背負っていたからだ。あの一つの足跡は私の足跡なのだよ」とお答えになったのです。たしかに主は、私達の全人生をそのように導き続けてくださるお方なのです。わたしの助けは天と地を造られた主から来るという答えを持っている人は幸いです。
私達の全生涯が出るも入るも守られ続けている事を感謝し、喜ぶ祝福に満ち溢れた日々であることを確信しましょう。


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