阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年7月14日
「すべての希望」
使徒2章25-28節

  ペンテコステの日に約束の聖霊が降り、ペトロと使徒たちは立ち上がって救い主イエスの十字架と復活を力強く証し始めました。
人は罪のために神と断絶したままで、救われる道がありませんでした。
しかし、神は人を愛し、神の独り子をこの世に遣わされて、救いの道を示して下さいました。その独り子は十字架に架かって死なれ、甦られ、人の罪の贖いを完成してくださいました。
 神が最初に創造された人、アダムはエデンに住む者でした。エデンでは園のどの木からでも実を取って食べる事が許されていました。しかし、神からたった一つだけ禁止されていたことがありました。善悪の知識の木からは、決して食べてはいけない事、食べると必ず死んでしまう事を教えられていました。
サタンは、最初にエバに語りかけて誘惑しました。言葉巧みに「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者になる」(創世記3:4)と語り掛けました。
善悪の木の実は美しく、いかにもおいしそうに見えたのです。
エバは、食べてはいけないと命令されていた実を取って食べました。そして夫にも食べさせたのです。
これが二人が犯した罪です。罪とは、神が禁止されていることをしてしまう事。それは、自分を神と同じとすることなのです。神への反抗です。これは、原罪と呼ばれている罪です。すべての人は、アダムとエバの罪を持って生まれてくることになってしまったのです。
ローマの信徒への手紙5章12節には、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」とあります。アダムの罪によってすべての人が罪を持って生まれ、神との断絶により、霊的に死んだ者となり、「死は支配する」(ローマ5:14)とあるように、人は死ぬ者となったのです。
真の神が独り子を遣わされて、救いの道を示されても、なかなか人は信じようとしません。罪が分からず救いが分からず、滅びゆくことも分からないのです。
旧約聖書には、やがてメシアが来られることが預言されています。
ペトロが引用したのは、詩編16編です。ペトロはこの詩編が主イエスについて預言したものであると語りました。
この詩編では「わたし」がどのような信仰に生きているかが告白されています。
わたしは、「いつも目の前に主を見ていた」(使徒2:25)とあります。わたしはいつも主と向かい合っているという意味です。
生きておられる主イエスをいつも自分の前に見るなら、導きのままに進むことが出来るのです。主を後ろに置くなら、自分がどこに進むのかわかりません。完全な導き手、良い羊飼いを常に前に置くなら安全なのです。
さらに、「主がわたしの右におられるのでわたしは決して動揺しない」(使徒2:25)と続けられています。
右の位置とは、これ以上はない権威、力、慰め、救い。勝利を表します。キリストは、甦られ神の右に着座されたのです。
主を信じる者には、これ以上ないほどの恵みと助けがあるのですから、何があっても慌てたり、動揺する必要はありません。常に主の右の御手が差し伸べられているからです。
罪が赦され、神との交わりが回復した者は、主イエスがおられるので、「わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる」(使徒2:26)のです。
人は何をもって心を喜ばせるのでしょうか。多くの人はこの世における喜びを喜びとします。人は心に何か喜びを持たなければ生き難いのです。しかし、世のものはあてにはなりません。みな過ぎ去っていくのです。
使徒の働き9章に、ヤッファに住んでいたドルカス(かもしか)という婦人の弟子が甦ったという記事があります。ドルカスはたくさんの良い行いや施しをする人でした。ペトロが呼ばれてヤッファに行き、ドルカスが安置されている部屋に案内されました。そこで、やもめたちは、ドルカスが作ってくれた衣類を見せながら泣いていました。
この時代のやもめは生活の為の手段がなく、貧しいので、暮らし向きが大変だったのですが、ドルカスによって助けと慰めを受けていたのです。
ドルカスにとって、やもめたちとのかかわりは大変なものだったのでしょうか。そうではなかったと思います。ドルカスも主イエスを前に置き、右の御手によって支えられて、やもめたちに仕える事が大きな喜びだったのです。
勝利であり、命の源であられる主は、命を与え、喜びに満たし、慰めを与えて下さるのです。
主イエスとの交わりがしっかりとあるなら、動揺することもなく、心は楽しみ、心からの賛美に満たされます。体も安心して希望をもって生かされます。
罪赦され、永遠の命をいただいた者は、復活の命と希望を持つのです。
主イエスが教えられる希望とは、確実ではない事をそうなればよいと思い、期待する事ではありません。もうすでに確実であることを待ち望むことが希望なのです。主イエスにある希望は決して失望に終わることはありません。
人は、原罪を持って生まれ、生きなければなりませんでした。罪の解決は、主イエスの十字架以外にはありません。
「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」(ローマ5:17−19)
一人の人、すなわちアダムによって罪が入り、死が人を支配するようになりました。すべての人が罪を持ち、有罪という判決を受けていました。
一人によって多くの人、この世は罪に満たされました。しかし、一人の人、イエス・キリストによって、多くの者が正しい者、罪のない者、義とされるのです。全世界が主イエスによって救われるという、確実な希望が与えられました。主を救い主として信じる者は、永遠の命を持ち、復活という希望に生かされているのです。
罪から解放され、命に満たして下さるのは、イエス・キリスト以外にはおられません。
ペトロとヨハネはエルサレムの神殿の美しの門で、生まれつき足の不自由な男の人を癒したために、ユダヤ人の宗教指導者たちに捕らえられ、議会に引き出されました。
議会でも主イエスの十字架の救い、復活を証言し、この男の人が癒されたのは、復活された主イエスの名によるものであり、「ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)と語ったのです。
まさに「命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」(使徒2:28)とあるように、主イエスの救いを声を上げて語りました。
生きておられる主イエスこそ、わたしたちの希望です。どのような時も主を前に置くこと、それこそがわたしたちの信仰なのです。
それは、主イエスを仰ぎ見つつ走ることなのです。主イエスを見失わず、後ろに置かず、従い続ける時に、正しい道、喜びの道を歩み、主イエスの力強い右の手に支えられ守られながら、喜びに満ち溢れた道を歩み通すことができるのです。
「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)
主に望みを置くなら、何度でも新しい力をいただくことができるのです。希望の源なる主イエスを崇めましょう。


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