阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年7月28日
「導きの御手」
詩編107編23-32節

 私達は、いつから神に覚えられていたのでしょうか。エフェソの信徒への手紙によれば、「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1:4、5)とあります。
天地が造られる以前に、神はもう私達を愛され、神の子にしようと定めていた、とあります。神の計り知れない愛とご計画に心が震える思いがします。
その目的は、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1:6)と続けられています。私達は神を褒め称えるために神の子とされたことを教えています。
神は私達を愛され、その御子イエス・キリストを賜りました。私達は、御子の十字架の贖いにより、罪赦され、神との和解ができて、神の子とされています。
神は、神の子である私達の人生を勝利に導かれます。
詩編107編は、救われた者の感謝と信仰の詩編です。バビロン捕囚から解放された者の喜びの歌です。それは、罪から解放された喜びと重なります。神は、罪に支配され、罪の中に滅びなければならなかった者を恵みにより贖い、解放されたのです。
そして、神の子とされた者が、この世において信仰によって勝利の生涯を送り、神の栄光をほめたたえるように、支え導き続けてくださいます。
詩編107編は、人生の苦難の中で神を呼び求める事が重ねて記されています。
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」(詩編107:6)、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らの苦しみに救いを与えられた」(詩編107:13)、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らの苦しみに救いを与えられた」(詩編107:19)、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから導き出された」(詩編107:28)と、繰り返し記されていて、苦しみの中から主に叫び求めると、その苦しみから救い出して下さることが語られているのです。
旅をする人が荒野で道を見失い、人の住む町への道を見出せないと、命が危うくなってしまいます。
飢え、渇き、魂も衰え果てます。命の危機を覚えて体も魂も消え失せそうになってしまいます。
私達も、時々自分がどこに向かって歩んでいるのか分からなくなるような時があります。あるいは、試練の中にあって、進むべき道が分からなくなることもあります。
誰かに助けてもらいたいと考えるのです。苦しみが深ければ深いほど助けが必要になります。
私達は、私達の神であるイエス・キリストに助けを求めて叫ぶことができます。
主イエスがエリコの町に近づいた時、ある盲人が道端で物乞いをしていました。多くの人々が通って行くので、「何事ですか」と聞くと、「ナザレのイエスのお通りだ」という答えが返ってきました。この盲人は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。
大声を上げたのです。周りの人々は彼を黙らせようとして叱りました。しかし、彼はますます叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。
主イエスは、立ち止まって下さいました。この人をそばに連れてくるようにと言われたのです。そして、「わたしに何をして欲しいのか」と聞いてくださいました。「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えると、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と御言葉をくださいました。
盲人はすぐに見えるようになって、神を褒め称えながらイエスに従いました。ルカ18章に記されている出来事です。
絶望と失望しかなかった人生の中で、「ナザレのイエス」が来られたことを聞くと、助けを求めて止めませんでした。叱られても声を上げ続けたのです。
主イエスには癒す力、救う力があるという信仰があったからです。見えない目が開かれ、神を褒め称える人生に変えられ、イエスに従うようになったのです。
海に出て交易をする人々の苦難が107編23節から記されています。大海を渡り、商いをするとありますから、地中海に乗り出して外国と交易をするのかと思えます。しかし、嵐にあってしまいました。
使徒言行録の中には、ローマへ向かうパウロが嵐に翻弄され、難船するということが記されています。
海での嵐は恐ろしいものでしょう。しかし、詩編の作者は、自然現象も神の御支配であることを記しているのです。
難なく操作出来るはずの船は嵐の中でもまれ、持っている知識や技術も役にたたない状況に置かれたのです。
私達の人生の中での大嵐の時、自分の持てる力ではどうしようもない事があります。
そのような時、人は祈るのです。この詩編の船を操作する人々の様に、真剣に神を呼び求める事ができるのです。
「主は嵐には働きかけて沈黙させられたので波はおさまった。」(詩編107:29」とあります。
ガリラヤ湖で大風に翻弄されて慌てふためいた弟子たちが、主イエスに助けを求めた時、主イエスは「黙れ。静まれ」と風を叱られ、凪になったという出来事を思い起こさせます。
嵐が治まり、喜び祝いながら、「望みの港」に導かれて行きました。途中で嵐に遭ってどうなる事かと思っても、その目的地に着くことができたのです。
主イエスは、私達の人生の主です。私達を愛し、導かれる神です。
私達の日々の中でも、思いがけない事があって、意気消沈することがあります。嵐のような出来事もあります。まっすぐに目的地に着くと思っていたのに、思いもかけないようなところを通されることもあります。
どのような回り道や挫折があっても、私達は、「望みの港」に導かれる主の御手を信じる事ができるのです。
嵐を静め、自然の全てを治めておられる神を待ち望むことが出来るのです。
エフェソの御言葉にあるように、私たちが神の子とされたのは、神を褒め称えるためです。どのような時も神を信じ抜き、褒め称える事を忘れてはなりません。
107編32節に、「民の集会で主をあがめよ。長老の集いで主を賛美せよ」とあります。
個人の生活の中でももちろん神を賛美します。崇めます。そして、公の集会の中でも主を崇め、賛美するのです。
主イエスに贖われた者の証は、神を賛美する事です。救いを心から喜び、賛美します。
人は、救い出されたことを感謝し、喜びます。私達は主イエスの十字架によって罪赦され、救われました。しかし、いつの間にかその恵みを忘れてしまうような事があります。恐ろしい事です。
神の愛と救い、日々の行き届いた導きを忘れてはいけないのです。神の恵みの中を航海している事を覚えなくてはなりません。
ですから、「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。」(詩編103:2)とあるように、数え切れない恵みとあわれみを思い返し、感謝しながら主の御手にすがって歩み通したいのです。
かならず「望みの港」に導いて下さる。天の御国に導き続けて下さる。嵐も、波も主イエスが静めて下さることを祈りつつ進んで参りましょう。
見えざる導きの御手があることを心より感謝し、その御手にすがって進みましょう。


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