阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年8月4日
「神の愛を知る」
Tヨハネ4章7-12節

 私達が、人から信仰について聞かれたらどのように答えるでしょうか。
「あなたの持っている信仰について教えてください」と聞かれたら、し
っかりと答える責任があります。
主イエスの昇天、聖霊の傾注から始められた使徒たちによる福音宣教は、迫害の連続でした。町々に教会が形成されていっても、偽教師によって間違った教えが持ち込まれて、戦いの連続でした。
Tペトロ3章15、16節に、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口(あっこう)を言ったことで恥じ入るようになるのです」とあります。
主イエスの救い、恵み、永遠の命について説明を求められたら、穏やかに礼儀正しく、自分自身の良心が正しく保たれて説明するようにと、あるのです。そうする時に、攻撃する者たちは、恥じ入るようになるのです。心にいつも福音を証することについて、備える事は大切な事です。
私達は神の愛を知っているはずです。愛されている事を語ることが出来るのです。
Tヨハネ4:8後半に、「神は愛だからです」とあります。神の愛の証拠は、御子を賜り、罪の贖いとして十字架に掛けて下さったことです。主イエスによって私達に命が与えられ、生きるようになったのです。
神の愛は、私達が神を愛したから与えられたのではありません。神がまず私達を愛して下さったのです。私達の状態や能力など一切関係なく、無条件で愛して下さいました。自分の行いや努力によって愛が与えられるのではありません。あの人はどうか、この人はどうかと、人と比べられるものではないのです。神は一人一人を最高に愛してくださるのです。
イスラエルはなぜ神の民とされたのでしょうか。申命記7章6節以下によれば、「あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」、神の民とされたとあります。(申命記7:7,8)
あなたを愛しているから、わたしの民としたと言われています。
人は罪深いものです。気づかないまま自分中心で、他の存在を憎んだり、受け入れようとしない心をもっています。人を裁き、自己主張のままに成すべきことをしないという所もあるのです。自己主張で生きるような者なのです。
 差し伸べられている救いの手を拒む、または、救いについて無関心ということも多いのです。
そのような者のために、神はイエス・キリストを遣わし、罪の贖いとしてくださいました。ここに神の愛が現わされたのです。
この方を信じ、その愛を受け入れるなら、喜びと希望、平安をもって生かされるのです。
イエス・キリストは、「罪を償ういけにえ」とされたと10節にあります。「いけにえ」とは、なんだか恐ろしい言葉の様に感じます。しかし、旧約聖書によれば、人の罪が赦されるためには、動物が犠牲、すなわちいけにえとしてささげられました。罪のあがないのためには犠牲が必要でした。犠牲をささげることは、毎年繰り返されるのですが、「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができない」(ヘブライ10:3)のです。
しかし、イエス・キリストは、たった一度、ご自身をささげて完全な贖いを完成してくださいました。ですから、「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」(ヘブライ10:18)私達は動物を供え物としてささげる必要はないのです。この十字架を理解し、受け入れる時、神の愛を知ることが出来ます。
 神の愛を知った者はどのように生かされて行くのでしょうか。
愛を知ると、謙遜と力に満ちて生きる事ができます。罪の中心であったいままでの自己中心が砕かれるからです。
神の愛を知り、愛を受けた者は、神の御声を聞きます。
「あなたはわたしの宝の民」、「あなたはわたしの愛する子」、「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43:4)「恐れるな、わたしはあなたと共におる」(イザヤ43:5)神はいつもそのように語り掛けてくださいます。
私たちが道に迷う時も引き戻し、正しい道に導いてくださいます。全生涯を導いてくださるのです。
 すばらしい神の愛を知り、受け入れなくてはなりません。神の愛を知る事こそが、信仰の起点となるのです。
愛を知る者は愛することを知ります。神のアガペーの愛を表すことが出来るのです。
 1954年(昭和29年)9月、大変な海難事故が起こりました。台風のために、青函連絡船、洞爺丸が転覆して1155人もの人々が命を失う事になったのです。この事故は、あの有名なタイタニック号の遭難に次ぐ犠牲者を出したのです。
洞爺丸に3人のアメリカの宣教師が北海道から東京に行くために乗船していました。座礁して転覆しそうになった船の中で人々を励まし、救命具を配ったり、着けるのを手伝ったりしていました。そのうちに救命具を着けていない若い男性を発見したアルフレッド・ストーン宣教師は、「あなたはまだ若いから」と言って、自分の救命具を差し出したのです。ディーン・リーバー宣教師も、若い女性に救命具を渡しました。この出来事は、三浦綾子著「光あるうちに」の中にも記されています。「嵐の中で、自分の乗っている船が転覆した時、自分の着けている救命具を他の人にゆずるという、犠牲的行為をなすことができるだろうか。・・・そんな緊急の時に、この二人の宣教師は、見も知らぬ、行きずりの他国の若者に、自分の命を救うべき、救命具をゆずったのである。誰にも命ぜられず、強いられもしなかったのに。」と、三浦綾子さんが記しています。宣教師の犠牲は、愛とは、犠牲の愛、報いを求めない愛、無条件の愛、命さえ差し出す事なのだと教えているのです。
誰しもがそのような事を体験するわけではありませんが、私達も神の愛を知る者として心を備えていたいのです。
私達に与えられている神の愛は、私達を満たします。私達が互いに愛し合うなら、神は私達の内にいまして、神の愛が全うされるのです。
神の愛が注がれて、満たされ、溢れて周囲に向かって溢れて行きます。私達の内に愛が満たされてそれで終わりではありません。神の愛は私達の内から流れて、周囲の人を潤し、イエス・キリストの復活の命に満たすのです。「互いに愛する」事を教えられているなら、そのように生活の中で愛を表すことが私達の信仰です。
「あなたの信仰を教えてください」と聞かれた時、「イエス・キリストこそ救い主です。わたしはイエス・キリストに愛されています。イエス・キリストの十字架によって罪が赦されました。イエス様が十字架で死なれて3日目に甦られたように、イエス様の命、永遠の命を戴いて喜んでいます。この世に生きている限り、互いに愛し合いなさいという聖書の御言葉に取り組み、イエス様の性質に変えられていく事を望んでいます」。「あなたも神の愛を受け入れませんか?」と伝えるなら、必ず聖霊は働いてくださいます。
世の中は、これからますます愛が冷えていくのです。自己中心が蔓延す。人の事などどうでも良いという無関心が広がっています。
人を憎み、責任を転嫁していくことが増えています。悪意がはびこっています。そのような世の中であるからこそ、神の愛が輝くのです。
神の愛と救いが必要でない人は誰一人としていません。
神の愛を伝える事が出来るのは、神の愛を知っている者だけです。
私達には、イエスを主であると告白した時から、神の聖い御霊がお住まい下さっています。聖霊は、愛、喜び、平安の霊です。神の愛に満ち溢れている事を喜び、平安に満たして下さいます。霊の目を開き、主イエスの御言葉を思い起こさせ、愛と力とに満たされるのです。
 私達は、神に愛されている者であることを改めて知り、受け入れ、感謝の内に、救いと愛を伝えて行きましょう。


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