阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年8月11日
「平和を生きる」
ヨハネ14章27-31節

 8月に入ると、人々は平和という事を考えさせられます。かつて大きな戦争があった事、戦争によって多くの人々が亡くなり、悲しみと失意の中を歩んだことを思うからです。戦死者だけではなく、広島と長崎に原子爆弾が落とされ、一般市民が亡くなりました。原爆症によって苦しむ人々は数知れませんでした。空襲も各地であって多くの人が犠牲となりました。平和が嫌いな人はいません。しかし、今も世界では平和でない状態の国々があり、自由や生活を求めて自国から他の国に移ろうとして、難民になる人たちがいます。
人はなぜ争い、苦しまなければならないのでしょうか。聖書は、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」(ヤコブ4:1、2)と記しています。人の持っている罪の性質が、原因だとあります。
罪と欲が、人の間の不和や争い、また、国と国の間の争いの根本的な原因なのです。
主イエスの十字架が迫っている時に、主イエスは弟子たちに大切な事を教えて下さいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)とお教えになりました。
弟子たちは、ペンテコステの聖霊傾注後、迫害のために散らされ、ある時は鞭打たれ、牢屋に入れられ、福音のために苦難の連続でした。
使徒たちは、迫害の最中にあって、この主の平和を持ち続けました。
主イエスの平和とは、どのような平和なのでしょうか。それは、この世が与える平和ではないとあります。
世が与える平安とは、何も心配事がなく、穏やかに、健康で過ごすことと考える事ができます。経済的にも心配がなければ平安と思うかもしれません。家内安全、商売繁盛といった外的な条件によって与えられる平安です。それらも大切な事かもしれませんが、主イエスの与える平安について考える事は大切なのです。
主イエスを信じる者は、主イエスの平和を知っています。なぜなら、主イエスの十字架によって、神との平和を回復することが出来たからです。神から離れ、罪と欲のままに生きて来た者の上に、御子イエス・キリストの十字架の血によって平和を打ち立ててくださいました。
天地万物を造られた真の神と、正しい関係を持つ者に引き戻されたのです。丁度、迷子になっていた羊が羊飼いによって捜し出され、自分が居るべき所に帰る事ができたように、私達は、十字架によって神の許に帰ることが出来ました。
私達は、主イエスの十字架によって罪赦された者ですが、すべての罪が赦されて救われ、永遠の命を受けたという喜びを忘れてはなりません。
自分の罪について鈍くなってしまうと、神の愛も恵みも救いもぼやけてしまうのです。
旧約聖書に登場するダビデは、メシア、キリストの先祖として選ばれていました。ダビデの末からメシアが来ると預言されていました。ダビデは、若いころから神と共に歩み、イスラエル二代目の王として選ばれていました。しかし、何事もなく王になったわけではなく、さまざまな苦難を経て王位に就くのです。ダビデは、最初の王サウルに召し出され、その信仰と勇気によって瞬く間に多くの武勲をたてました。神が共におられたからです。
ダビデがあまりにも活躍するので、サウル王は彼を妬み、命を執拗に狙うようになりました。ダビデはしかたなく逃亡生活に入るのですが、なおサウルはダビデを追い続けるのです。
ダビデは心ならずもサウルから憎まれ、逃げ続けなければなりませんでしたが、サウルを恨み、憎んだわけではありませんでした。神が選んで油を注がれ、王に立てた器と考えていたのです。
ある時、ダビデたちが潜んでいる洞窟にサウルが入ってきたことがありました。ダビデの兵たちは、今こそサウルを撃つチャンスだと考えましたが、ダビデはサウルの上着の裾をそっと切り取ったのです。しかし、それさえも心を痛めて後悔しました。それで、サウルに呼びかけ、ひれ伏して、自分はサウルに対して危害を加える気持ちは全くない事、自分のような者を追う必要はない事を訴えました。
サウルはダビデに対して泣きながら、もう危害を加えない、お前は必ず王になりイスラエルはお前によって確立されると語りました。
ところが、サウルはこの後もダビデを追うのです。ダビデの平安とサウルの不安と恐れが対照的なエピソードです。
人の心は弱く、その時正しい決心したのに、すぐに動かされて罪に走ってしまうのです。平安はありませんでした。
サウルはやがてペリシテとの戦いで、息子たちと戦死しなければなりませんでした。
命を狙われ、荒れ地を放浪しなければならなかったダビデの心は確かに苦しかったことでしょう。しかし、なお神の約束と、神の平安が心に沸き上がり、力となったのです。やがてダビデは30歳で王となり、40年間在位することになるのです。
罪赦された者は、キリストの命につながり続けることにより、罪の悔い改めと新しい命に常に満たされます。
主イエスはご自分のことを、まことのぶどうの木であると教えて下さり、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)と語って下さいました。
神との平和を持つことが出来た者は、そこで初めて人との平和を造り出すことが出来るのです。
主イエスの平和は、愛と赦しの平和です。赦しのないところに平和はありません。
主イエスは、心を騒がせるな。おびえるなと語って下さいました。十字架に架かられる主イエスは怯えておられません。弟子たちが心を騒がせていたのです。
主イエスは、世の支配者が来るとあらかじめ伝えておられるのですが、何も恐れる必要はないのです。「なぜなら、彼は私をどうすることもできない」からです。この世の支配者であるサタンは、主イエスに対して何の力も持っていないと宣言されています。
主イエスは父なる神を愛し、父の御心を行うことで平安と喜びに満たされていました。
主イエスは弟子たちに、「さあ、立て。ここから出かけよう」(ヨハネ14:31)と御声をかけて下しました。
私達も、心を騒がせ、あるいはいらだち、平安とは程遠い心の状態を持ったままいることがあるかもしれません。主イエスは、平安に満たし、さあ、一緒に出て行こうと励まされるのです。あなたたちをみなしごにはしないと言われた主は、独りで頑張って来なさいとは言われません。さあ、わたしが一緒にいるのだから安心しなさいといわれているのです。
主イエスが私達に先立って下さるのです。私達が先に進む所を主イエスがついて来られるのではありません。
神の聖い御霊は、愛、平和、喜びの霊です。それは、罪赦された者の心を満たし溢れ流れてきます。平安が溢れて来るのです。
神との平和、人との平和は何より素晴らしいものです。
私達の人生において、サタンの試みがあるかもしれません。躓きがあるかもしれません。死の陰をたどるような思いをするかもしれません。しかし、主イエスは主の下さる平安に満たし、勇気を下さり、さあ立てここからでかけようと御声を掛けてくださいます。
今、何かに怯えている事はありませんか、恐れに満たされているようなことはありませんか。思い煩いに悩んでいませんか。
静かに主イエスを待ち望みましょう。主イエスの御言葉に満たされましょう。主イエスにサタンはなんの力もありません。主イエスの十字架の血潮に守られている、救われた神の子に対しても何の力もありません。
主イエスの平和に満たされ、平和を造り出す者、ピースメーカとしての信仰に生きましょう。

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