阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年8月18日
「天の国の民」
フィリピ3章20-21節

 フィリピの教会は、ヨーロッパではじめて福音が伝えられて造り上げられた教会です。この手紙はAD61年ごろローマの牢獄に繋がれてさいたパウロが記した手紙です。
パウロは、牢獄にありながらも喜びに溢れた手紙を送りました。
どのような境遇にあっても、喜ぶことと、そして、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平安が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによってまもるでしょう。」(フィリピ4:6、7)と励ましの言葉を送っています。
この手紙は、教会に宛てた手紙です。ですから、当然クリスチャンに向けて記されているのです。ところが、18節、19節には、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」とあって、「彼らの行き着くところは滅びです」とあります。涙ながらに記されています。
 イエスを主と信じながら、キリストの十字架に敵対して歩むことは、相容れないものがあります。一体どういうことなのでしょうか。
主イエスは、すべての人の罪を完全に赦し、贖うために十字架に架かって下さいました。唯一の救い主であり、この方を信じる者は救われるのです。永遠の命をいただき、その命に生かされます。
救われた者は、救い主の恵みの中に歩むことができるのです。この世にあっても、いつも十字架を見上げ、救いを喜び感謝し、世と調子を合わせる事はありません。しかし、「自分の腹」すなわち、欲望のままに生きるとしたら、道を踏み外したままになってしまいます。

 当時、ローマ市民権を持つ者は、生活に困りませんでした。労働は奴隷がするのであり、市民は、娯楽や食事をほぼ無料で楽しむことが出来ました。「パンとサーカス」という言葉があるように、食事と娯楽が提供されたのです。腹を神とするとは、彼らの神は食欲であると、直訳することができます。自分の欲のために生きる事が人間らしいとし、欲に仕える人々がいました。また、恥とするような行為を自慢するような人もいたのです。恥ずべきものを誇りとするとは、考えられないことですが、事実としてあったのです。さらに、地上の事、富、名声、権力などしか考えない人々もいました。キリストの福音とはかけ離れた思いであり、生活なのです。
なぜ、教会に集いながらそのような人々がいたのでしょうか。
キリストの命につながっていない事が原因です。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:4)イエス・キリストというまことのぶどうの木につながり、その命に満たされなければ実は実りません。キリストの命につながっているなら、必ず豊かな実が実るのです。
人にとって、キリストの御言葉を信じ、従う事が本当に大切なのです。「主よ、主よ」と呼び、また、大きな業をしたとしても、御心に従わないなら、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども」(マタイ7:23)と言われてしまいます。
家と土台の例え話では、キリストの言葉を聞いても行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人であって、大雨が降り、川が溢れ、風が襲い掛かるとその家はあっけなく倒れて、しかもその倒れ方は酷いと教えておられるのです。
キリストの命につながり、御言葉を愛し、御言葉に従う者は、誠実に祈る者となります。神との交わりを大切にするのです。神との会話を楽しみとします。
祈りの中に力をいただき、慰めに満たされ、命と平安を力とします
祈りの中でキリストの十字架を深く思い、その十字架は自分の罪の為であったと、深い悔い改めに導かれます。これらが日々の生活であるなら、どうして十字架に敵対する者になるでしょうか。決してそのようなことはありません。
フィリピの手紙、1章27節では、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活をおくりなさい」と勧めています。
救われた者は、神の国の市民としてふさわしく生活しなさいという意味です。
 フィリピは、ローマの植民地でした。ローマの植民地はローマの様に造られ、そこに住む人々はローマに住むように生活したのです。ローマ風の服を着て、ローマの名前を使いました。
 ローマ帝国は21年間の兵役を終えると、褒賞としてローマの市民権を与えました。また、多額の金で市民権を買う人もいました。フィリピにはローマ市民権を持つ人々が多くいました。彼らは自分がローマ市民であることを忘れる事はありませんでした。
自分の欲に支配されている人々がたしかにいる。彼らの最後は滅びであると厳しい宣告がされています。すみやかに悔い改めて正しい道に戻らなければなりません。
そのような中で、「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と、天国の民であることを高らかに宣言しているのです。
国籍を天に持つものであることを決して忘れることなく、天の国の民として歩むようにと、勧めています。
やがて来られるキリストを待ち望むのですが、「待っています」という20節にある御言葉は、他の一切から目を離して、熱心にひたすら待ち望むという意味です。
天の国の民は再臨のキリストを待ち望む者です。
主イエスのたとえ話に、灯をかかげて待つ10人のおとめの話があります。婚礼のために来られる花婿がなかなか来ないので、10人のおとめは眠ってしまいます。そのうちの5人は、油を用意してありました。他の5人に油の用意はなかったのです。真夜中に花婿だという声がしてそれぞれの灯を用意したのですが、5人のおとめの油はなくなり、灯は消えそうでした。油を用意していた5人に油を分けてほしいと頼んだのですが、分けるほどはなく、買いに行かなければなりません。そのあいだに花婿は到着し、婚宴がはじまりました。戸は閉じられ、灯を整えられなかった5人は婚宴の席に入ることはできなかったのです。
主イエスが再び来られる時をひたすら待つ者は、いつでも灯を整えています。
さらに素晴らしい事は、弱くすべてに限界がある私達の体が、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられるという事です。
「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Uコリント3:18)
私達の外側の姿も、内なる姿もキリストと同じ姿に変えられて行きます。それは日ごとに聖霊の働きがあるからです。
 キリストは私達を愛して、御自分の命を投げ出してくださいました。
これ以上ないほどの愛で愛して下さいました。私達はその愛をどのように受け止めているのでしょうか。
 かつては、過ちと罪の中にある生活でした。それすらもわからないような者でした。肉の欲望のままに生きるような者でした。自分を満足させるために生きていたかもしれません。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、− あなたたちの救われたのは恵みによるのです。」(エフェソ2:4、5)とあるように、この上もない神の愛によって救われ、神の国の民とされた者は、その恵みと憐みを褒め称えながら、神の栄光をあらわす生き方を追い求めたいのです。
 自分の努力や思いだけではなく、聖霊と恵みによって生かされて行くことにより、おのずとキリストの品性を表すことができるのです。
 キリストによって贖われ、神の国に国籍を持つ者としての生活が、なお祝福され、証しとなるように祈りつつ進んで参りましょう。

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