阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年8月25日
「試みにあわせず」
マタイ6章13節

 主イエスは、私達を愛して、常に信仰を強くするために御言葉を与えて訓練して下さいます。また、祈ることを教えて下さいました。
祈りは霊的な呼吸に例えられます。御言葉は食物です。クリスチャンは、祈りと御言葉によって霊的な命が保たれ、成長していきます。
主イエスは、良くお祈りをされました。一人になり、山に入り祈られました。天の父との交わりを本当に大切になさいました。
ルカによる福音書11章によると、ある弟子が、イエスが祈っておられる姿を見て「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ヨハネ11:1)とお願いしました。
その時に、主イエスは、「祈る時には、こう言いなさい」と、主の祈りを教えて下さいました。
主イエスは、天の父を崇める事、御心が地で行われるようにと、また、日々の糧のために祈り、赦されることを祈る、本当に大切なことを教えてくださいました。単に口先で言葉を唱えるのではなく、天の父に心から祈ることを教えて下さいました。
最後に「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい」(マタイ6:13)とあります。
私達がいつも祈る文語体では、「我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ」とあります。
こころみとも、誘惑とも翻訳されているのです。どのように考えたらよいのでしょうか。
私達は、こころみとは、試練の事だと思います。聖書は、試練があることは幸いな事と教えているので、こころみに遭わせないでくださいという祈りはなぜなのだろうと思うのです。
試練も誘惑も、聖書の言語であるギリシャ語で「ペイモラス」という言葉が使われています。同じ言葉なのです。
ヤコブの手紙1章12節以下に、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて(そそのかされて)、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を産みます」(ヤコブ1:12−15)とあって、試練と誘惑をはっきりと分けて教えているのです。
天の父が人を誘惑されるのでしょうか。それはありません。神は聖なる方です。誘惑されることも誘惑することもないのです。
天の父は愛する子に試練をお与えになります。それは愛する子を訓練して信仰によって歩むように、また、神の聖さに預からせるためです。
愛する子に益となるように、訓練されるのです。しかも、試練と同時に逃れる道を備えて下さり、耐えられないような訓練はなさいません。
ですから、聖書は、試練に遭う時には喜びなさいと、教えているのです。
試練と誘惑はどのように違うのでしょうか。先ほども申しましたが、どちらも同じ「ペイラモス」という言葉なのです。
同じ言葉でも、誘惑とある時には、わたしたちを神から引き離すものと考えて間違いはありません。
御言葉は、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」(ヤコブ)とあります。
人が持つ欲がすべて悪いものと考える必要はありません。食欲がなければ体調を維持することはできません。人の欲と呼ばれるものが悪いのではなく、それが罪になってしまう事が多いのです。欲が、主の御心から離れて、人の思いと行動の源となってしまい、それを膨らませていくときに罪となります。神の御心から離れ、聖霊の諭しにも心を傾けず、欲が罠となり、罪になるのです。
自分の欲に引かれるとは、漁をする時に餌を蒔いておびき寄せるという意味になります。
だれでも、御言葉と聖霊に満たされ導かれる生活から離れると、罪に陥る可能性はあるのです。
人は罪を犯しやすい弱いものです。罪を犯す時、いろいろな言い訳をしてしまいます。アダムは、食べてはならない木の実を食べた時、神に対して、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)と答えました。
あなたがこの女を与えたから、食べてはいけないと命令されていた木の実を食べた、と言っているように聞こえます。神のせい、エバのせいだと言っているのです。責任転嫁の典型的な例です。
イスカリオテのユダは、主イエスを銀30枚で祭司長たち、ユダヤ人に売り渡しました。銀貨30枚は奴隷を売買する時の値段でした。たぶん90万円位ではなかったかと言われています。
いつも一緒に生活し、教えを聞き、従っていたはずのユダは、なぜ主を売ったのでしょうか。ヨハネ13章2節には、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とあります。サタンは主イエスを裏切るように誘惑していました。ユダは、ここで思いとどまり、悔い改める事も出来たのです。まだ間に合うのです。しかし、ユダは心をサタンに渡してしまいました。主イエスの渡されたパンを受け取った時、はっきりと裏切ることを決心して、行動に移しました。
良く例えられる話ですが、頭の上に鳥が飛んでくるのは拒むことはできません。しかし、頭に巣を作ろうとしたら、どうしますか。それは拒み、追い払う事ができるのです。罪の誘惑もそのようなものです。
誘惑がやってきても、罪を犯すことのない信仰に生きたいものです。
創世記にヨセフの出来事が記されています。彼は、ヤコブの11番目の子供でしたが、父であるヤコブに溺愛されて育ちました。
兄たちは、ヨセフを妬み、憎んで、ある時エジプトに売ってしまいました。
今まで父に愛され、美しい洋服を着せてもらい、すべてに特別に育てられていた境遇から、外国に奴隷として売られてしまったのです。それでも、神が常に共におられて、ヨセフを祝福してくださいました。ヨセフは、ポテファルという高官の家の奴隷として、財産管理を任されるほどの信頼を得ていました。ところが、ポテファルの妻はヨセフに言い寄るようになりました。ヨセフは着物つかまれたのですが、そのまま外へ逃げ出しました。結局、ポテファルの妻の偽証で罪を着せられ、投獄されてしまいましたが、誘惑に遭っても罪を犯すことはありませんでした。頭の上に巣は作らせなかったのです。その後ヨセフはエジプトの宰相となり、やがて父や兄と再会することになります。
主イエスが教えられた祈りに「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りが教えられているのは、これが大切な祈りだからです。
「わたしたちを神様から引き離そうとする悪い者の誘惑から守って下さい」という祈りなのです。悪魔ははっきりとわかるような姿で誘惑はしません。神を信じても祈りは聞かれない。神を信じて従うより、自分の好きなように、自由に生きた方が人間らしいと心に訴えて来るのです。あるいは、あなたは罪深い人だから、神はあなたを愛してはおられない、などと、その人の弱い所に働きかけます。巧妙な力があるのです。
その悪の力から救い出し、守って下さいという祈りがこの祈りなのです。
主イエスは私達のために執り成して下さっています。「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけられることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31,32)十字架の前に、ペトロが主を否むことをあらかじめ知っておられ、なお励まして下さいました。
誘惑の中でうろたえ、躓き、弱り果てるような時にも、主は祈り続けて下さり、しっかりしなさい、わたしがあなたと共にいると励まして下さっているのです。主イエスから目を離してはいけません。弱い時にこそ、主を見上げて信頼するのです。天の御国に行くまで、主イエスを信じ、私達を守り、救って下さいと、祈り続けて行きましょう。

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