阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年9月1日
「御心が行われるように」
マタイ6章10節

 主イエスが教えて下さった祈りについて、きょうも学びましょう。この祈りは、祈りの模範であって、敬虔な心で祈る大切な祈りです。
主イエスは、祈る時には父なる神との祈りの場を生活の中で位置づける事を教えてくださいました。だれも交えないで、ひたすら父なる神との時を持つのです。
主イエスは、くどくどと祈ることは異邦人と同じことと指摘なさいました。異邦人とは、真の神を信じていない人の事を言います。神を信じていない人は祈ることが出来るのでしょうか。それは、お願いにすぎないものになるのです。お願いしたので気が済むにとどまるものです。
真の神を信じている人の祈りとはどのような祈りなのでしょうか。
主イエスは、私の名によって祈りなさいと教えておられます。
ヨハネによる福音書14章から16章の間には、何回も主イエスの名によって祈るなら、そうすれば、父は聞いてくださると繰り返して教えておられます。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うなら、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16:23、24)
イエスの名によって祈るという事は、その祈りは主イエスが保証して下さり、イエスご自身の祈りと同じ権威を持つ祈りなのです。
ですから、異邦人が祈りを聞くことのできない存在に繰り返し求めるような事は必要ありません。そして、ファリサイ派の人々が、人の前で自分が信仰深い者であることを示したいために、必要のない長い祈りをしたことに対する教えでもあります。彼らはもうすでに報いを受けているのだと言われました。
主イエスの名によって祈る時、祈る前から父は全てを知っておられます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6:8)と約束されています。
「あなたがたが必要なもの」より、「あなたがたに必要なもの」とあることを、心に留めたいと思います。同じような意味なのですが、「私達が必要と思っているもの」よりも、天の父が「あなたがたに必要なもの」を与えてくださる事に感謝したいものです。ここに天の父の御心を覚えるのです。
それは、御心がなりますようにという祈りにつながります。
主の祈りは、最初に天の父に向かい、「御名が崇められますように、御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈れとあります。
祈りの前半は、天の父に関する祈りです。まず、神が天地創造の唯一の真の神であることが認められ、崇められるところから、私たちの祈りが導かれるからです。生きておられて祈りを聞いて下さる方です。
真の神は、主イエスの十字架によって罪が赦され、贖われた者の父となって下さいました。最高の良い父であって、愛する子として受け入れ、常に良い物で満たして下さいます。
ですから、両親がその子を愛して、その必要とするものを与えるように、それ以上に必要を満たして下さるのです。
天の父に対するゆるがない信仰と信頼を持つ時に、祈りは変わります。
祈る前から知っておられる父に祈るのです。
信仰の祈りは、私達の願いや計画が成って行くより前に、天の父のご計画と御思いが成りますようにという祈りです。
私達の毎日の歩みの中で御心が実現しますようにと祈ります。すべての歩みが御心に適ったものであるようにと祈ります。
神の御心は聖書にあります。御心は神の言葉によって知ることが出来ます。聖書を読まないで御心を知ることは難しいでしょう。祈りの時も聖書を開きながら父との会話を続けます。
Tテモテ2章1節には、すべての人のために執り成しの祈りをしなさいとあります。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神はすべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(Tテモテ2:1)と教えられていて、ここにも大切な神の御心と、祈るべきことが示されています。
新約聖書の時代は、一般庶民にとってあまり楽な時代ではありませんでした。ローマ帝国に支配されていて、税をとられ、自由がなかったからです。また、民族のプライドも踏みにじられていたのです。迫害が広がっていく時代でもありました。そのような時代の中で、すべての人のために感謝をもって祈る事、自分たちを迫害するような支配者のためにも祈れと教えています。
主イエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44口語)、「のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ」(ルカ6:28口語)と教えておられます。主イエスはすべての人の救いのためにこの世に来てくださったからです。
天の父の御心は、贖われた者たちが、アガペーの愛をもって愛し合う事、互いに仕え合う事、赦し合う事です。そして、神は最善のときに最善をなされることを信じ、すべてを委ねながら神の栄光をあらわしていくことです。
主イエスがこの世に来てくださったのは、一部の人の為ではなく、「すべての人の贖い」としてご自身をささげられるために来られたのです。(Tテモテ2:6)
天の父の愛は、主イエスの十字架で現わされました。この十字架はユダヤ人の救いの為だけではなく、全世界の救いの為でした。この国の人は救われないとか、あの国はだめだとかではありません。
使徒言行録によると、福音が伝えられると迫害が起こり、迫害されるとさらに福音が拡大していく様子が記されています。
ステファノは、評判の良い、聖霊に満たされた弟子の一人でしたが、逮捕されて、石打ちの刑に処されます。ステファノが聖霊によって、また知恵によって語るので、論破された者たちが嫉妬し、神を冒涜したと人々を唆して逮捕させたのです。この時からエルサレム教会に対して大迫害が起こり、使徒たち以外は各地に散らされて行きました。
エルサレムに留まることができずに、地方に行かなければなりませんでした。しかし、散らされた人々は福音を伝えながら各地を巡って行きました。不思議な御業が起こされ、福音が伝えられ、多くの人々が救われ、異邦人の教会が建て上げられました。パウロを伝道旅行に遣わしたシリアのアンティオキア教会もステファノの事から始まった迫害の結果、福音が伝えられて建て上げられた教会でした。このアンティオキアでイエスを主と信じる者たちがクリスチャンと呼ばれるようになったのです。
迫害という犠牲を払って宣教が拡大していきました。多くの人々が主を受け入れたのです。
福音は世界にもたらされ、私達のところまで伝えられてきました。日本には、1549年にフランシスコ・ザビエルによって、キリスト教が伝来しました。これは、天の父の御心が成されるようにという祈りの実と考えられます。大きな船が建造され、航海ができるような時代となったのです。やがて、禁教となって、明治の時代までキリスト教は禁止されてしまいました。
しかし、明治になり、プロテスタントの宣教師たちは日本での宣教を開始します。苦労して、日本語の新約聖書も翻訳されました。
御心がなり、多くの人々が救われるために。神の働きを続ける人々が用いられたのです。神の不思議な摂理の中に宣教は拡大していきました。
この宣教の業は継続されています。神は私達の祈りに答えて多くの人々を救って下さいます。
神の愛は、人を滅びから神に立ち帰らせて下さる愛です。その愛の御業に私達が参加するのです。
私達は、御心の種を蒔きます。救い、成長させて下さるのは神ご自身です。私達は、日々に神の御心がなるようにと祈りつつ、神のご計画に用いられたいと願うのです。

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