阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年9月15日
「祝福の人生」
イザヤ46章3-4節

 聖書は神が私達に下さる命の言葉です。いつも正しい道に導き、私達の魂を命に満ち溢れさせて下さいます。
 神の御言葉は、神を信じる者の人生を間違いなく導いてくださいます。
人は生まれたら、その時から確実に年を重ねていきます。幼い時は時がたつのはゆっくりです。一週間は永遠かと思うくらい長いと感じます。
ところが年を取るに従って、一日があっという間に過ぎ、1年、5年、10年などは夢のように過ぎ去っていきます。
日本では65歳以上を高齢者とするらしいのですが、いつまでも元気で年を重ねたいものです。
聖書は、年を重ねていくという事をどのように教えているのでしょうか。信仰の父と呼ばれているアブラハムは、175歳まで生きたことが創世記25章に記されています。
「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(創世記25:7)とあります。
 イスラエル民族の祖とされ、信仰の父と呼ばれたアブラハムでした。彼は、長生きしただけではなく、満ち足りた生涯を送ったのです。理想的ではないかと思います。命を長らえていても、つぶやきや後悔に満ちた日々なら、その人生は何とも悲しいものになってしまいます。
そうならないように、私達は真の神を信じるのです。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。」(コヘレト12:1)という御言葉があります。
口語訳の方が馴染み深いかもしれません。口語では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしには何の楽しみもない』と言うようにならない前に・・・」と訳されています。いずれにしても、この御言葉は、若い時に真の神を信じるようにという真摯なお勧めなのです。
なぜなら、真の神を信じ、知る事こそ、祝福の人生を送るカギとなるかです。アブラハムは若い時から真の神を信じていました。
アブラハムは75歳の時、神の召命をうけました。高齢になっていました。神は、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」と、語って下さいました。
アブラハムは、この御声に従い、行き先をしらないまま神の導きを信じて出発しました。アブラハムは多くの国民の父となること、また、祝福の源となると語って下さる神を信じたのです。
 真の神が、「あなたの人生全てを祝福します」と約束して下さり、その祝福を受けながら日々を送れるのは、これ以上ないほどの幸いです。
アブラハムは、「祝福の源となるように」と選ばれました。
祝福は自分だけのために受けるのではなく、多くの人々に祝福を注ぐためであることが示されています。
アブラハムが神の召しを受けたように、私達も神の召しを受けています。それぞれの、それまでの生き方を変えて、私が指し示す道を行きなさいと言う召命です。主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、神の子となったことこそ、神の召しにしたがうという信仰の出発点なのです。
神は、アブラハムに信仰と希望という祝福を注ぎ続けました。大いなる国民の父とするという約束を受けていたのですが、100歳になっても約束の子は与えられません。妻のサラは90歳になっていました。
子供を持つことはできない年齢になったのです。しかし、アブラハムは、神が約束されたら必ず成就することを信じました。そして、約束の子イサクが与えられたのです。
神が約束されたことを必ずその通りにしてくださると信じ抜くことは、大きな祝福です。
私達は、毎日多くの恵みをいただき、大きな祝福の中に生かされています。神が下さる平安や喜びに満たされ、生きていく中に、生きておられる神の恵みと祝福を知ることができます。しかし、それをそのまま、自分だけのものにしておくことは神の御心ではありません。
アブラハムが祝福の源であったように、わたしたちも祝福の源として召されたことを、いつも心に留めておきたいと思います。
神は、私達に「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。」(イザヤ46:3)と語っておられます。
私たちは、神を知らなかったけれども、神は私達を知っておられ、愛して下さり、生まれた瞬間から全能の御手の中に守られてきたのです。
神が背負って下さり、今日まで導いてくださったのです。
人生の中で、苦しみはたくさんあります。自分の力では乗り越える事が出来ないと思うような苦しみもあります。
ある時は孤独という苦しさや、理解されないという苦しさを味わう事があるでしょう。年を重ねて体の弱さを覚える事もあります。
自分で乗り越えられないような苦しみの時、神に背負われているなら、安心してお任せすることができます。
どこへ行くのか分からなくても、神は知っておられるのです。
詩編23編にあるように、羊飼いについて行くなら、緑のまきば、憩いの水際(みぎわ)にともなわれます。魂と体に安らぎが与えられます。
孤独や苦しみから解放されて、感謝と喜びに満たされます。
母の胎を出た時から担われてきた者は、老いの日を迎え、白髪になるまで、一生涯背負われて過ごすことができるのです。
なぜなら、神は創造主であって、「あなたたちを造った」からだと、言われるのです。
全能の神が全生涯責任をもって導いてくださるとは、何と素晴らしい事ではないでしょうか。
神は、年を重ねた者にも、若い者にも、どのような者にも、御言葉と真実をもって励まし続けて下さいます。
神を信じながらも、弱りはてる時も、なお励まして下さいます。
病の時、望みが絶たれたように思う時、疲れ果ててしまった時、神に背負われている事さえ忘れるような時があるかもしれません。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」
(イザヤ40:28−31)
あなたは知らないのですか、聞いたことはないのですかとあります。私達は聞いています、知っているのです。
私達の神の愛と全能の力を知っているのです。若者も、「勇士」と呼ばれている者も疲れて倒れてしまう事があります。人間の力には限りがあります。
しかし、主に望みをおき、堅く信じてこの方に絶対的な信頼をおくなら、新しい力に満たされるのです。満たされ続けて鷲の様に高く舞い上がります。
上昇気流に乗ると、鳥は羽ばたかず、しかし翼をしっかりと広げて、その気流にのって高く飛ぶことが出来るのです。渡り鳥は上昇気流に乗って9千メートル級のヒマラヤさえ超えるのです。
聖霊の気流に乗る時、私達も高く上ることが出来ます。疲れる事もなく決して疲れる事もありません。
確かに体は衰えていくでしょう。しかし、内なる人は日々新しくされ、主イエスによって与えられる希望と喜びに満たされ、多くの人のために祝福の源として用いられるのです。
私達の全生涯は神の御手の中に守られ、背負われて導かれている事をあらためて感謝し、神の祝福を表す者としてこれからも御言葉に従い喜びの道を進んで参りましょう。

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