阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年9月22日
「神の賜物」
コリントの信徒への手紙T15章3-11節

 今日は、先に天に召された兄姉を記念する礼拝です。人はこの世に生まれたら、天に召される時が必ずやって来ます。やがていつか召される時を覚えながら今を生きることは、大切な事です。
カトリックの祈りに、今も臨終の時も罪人である我らのために祈り、執成して下さいという祈りがあります。幼児にも教える祈りですが、カトリック信徒である曽野綾子さんは、幼い時から自分にも臨終の時が来ることを教えられるのは、人として幸いな事と述べています。
なぜなら、一日一日をかけがえのない時として、感謝して大切に生きるようになるからです。
かけがえのない日々を生きていく上で、「最も大切な事」を聖書は示しています。
コリントの教会に宛てた手紙を記したのは、使徒パウロですが、パウロは、かねてから伝えていた「福音」について、もう一度教えると言っています。(15:1)。そして、この福音に根差し、しっかりと心に留めているなら、福音によって救われるとあります。
福音とは、「良いニュース」で、このニュースを受け入れて救われるのです。そのニュースとは、15章3節以下にある主イエスと、その復活のニュースです。
人は、罪深い性質を持って生まれてきます。その性質をもったまま大人になり、人生を送ります。真の神とその愛を知らず、自分の思いを押し通し、争いながら生きていきます。心に余裕もなく、人を憎み、あるいは蔑み、あたかも自分は正しい人間であるかのように、自分を主張します。
あるいは、人と世の中を拒絶し、自分の殻に引きこもってしまう人も多いのです。さまざまな理由で、7年以上家から出ずに、社会での生活を拒む人々の年齢が高くなっていて、中高年の引きこもりは62万人にも及ぶ統計が出ています。それ以下の年齢では、55万人が家の中で過ごしているそうです。その数は、尼崎市の人口の3倍にもなります。
人は、一度しかない人生を、大切に、有意義に、楽しく送るように、本当に大切なものを知らなければなりません。
「福音」は、救いをもたらすとあります。生まれながらに自己中心で罪ある者を救うのです。
天地を造られた真の神は人を愛し、罪の解決を与えようと、その独り子であるイエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。
主イエスは、ある時、会堂で旧約聖書のイザヤ書を朗読されました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
(ルカ4:18−19)
そして、主イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)と宣言なさいました。
今まで心の中の罪に支配され、縛られて、本当に大切なものが見えなかった人が解放され、だれでも救われるすばらしい恵みの時代が来た事を宣言されたのです。
主イエスは人々に救いを与えるために、十字架の道を進まれました。
罪が赦されるためには、犠牲が必要でした。旧約時代には、大祭司が神殿で、羊や牛などの動物を犠牲としてささげて、罪の赦しを神に祈りました。犠牲をささげる事は繰り返してなされる事でした。罪の解決はなかったからです。しかし、主イエスの十字架は、たった一度だけご自身を献げる事で犠牲による贖いを完成されました。
主イエスを信じる者は、完全に罪から解放されるのです。そして本当の意味で生きる者となり、日々主イエスの性質に変えられ続けていくのです。
クリスチャンは、日曜ごとに教会で礼拝をささげます。主イエスは、金曜日に十字架に架けられ、死なれたのです。そして、日曜日の朝早く復活されました。日曜日の礼拝は、主イエスの復活を記念し、信じている事の証しです。
死にはだれも勝てないと思っています。主イエスは十字架で死なれ、墓に葬られました。望みは絶たれたと思いました。
三日目の朝、即ち日曜日の朝早く墓に行った婦人たちは、そこに主イエスの遺体がないので途方に暮れました。ユダヤでは、金曜日の夕方から安息日に入るので、主イエスは急いで葬られました。安息日が終わって、遺体に油や香料を塗って本格的に葬りをしようとやって来たのです。しかし、お墓はからでした。
天使が「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか。」(ルカ24:5−7)と言ったので、婦人たちは主イエスのお言葉を思い出したのです。十字架に架けられて死なれるけれども、復活されるという御言葉を思い出したのです。
使徒たちはこの話を聞いても信じようとはしませんでした。しかし、復活された日曜日の夕方、主イエスは弟子たちのいる部屋に入って来られ、「平安があるように」と語りかけてくださいました。
その出来事がコリントの信徒への手紙に書かれている事です。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」(15:3、4)。もし死んだままであるなら、救いと希望は絶たれたでしょう。しかし、つぎのように続くのです。「また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです。」ケファというのは、ペトロの事ですが、ペトロや弟子たちに現れ、ご自身が復活されたことを証明されました。
このコリントの手紙が書かれた時には、復活されたキリストにお会いした人々が、大勢残っていると記されています。復活の証人がまだ大勢いたのです。
その後も、すべての使徒たちにあらわれ、使徒と呼ばれる者の最後となったパウロに現れてくださいました。
パウロは、復活されたキリストを宣べ伝えて、大きな働きを成し遂げたのです。しかし、その働きは自分の働きではなく、神の恵みであると、語りました。
「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(Tコリント15:10)
イエス・キリストの、十字架の死と復活を信じる者は救われるという福音は、最も大切なものとして教えられています。
パウロはある時、アテネで伝道しました。パウロは、キリストと復活について語り、福音を伝えたのです。アテネの人々はいつも何か耳新しい事を聞いたり、知りたいと思っていたので、パウロをアレオパゴスの真ん中に立たせました。
パウロは、あなたがたが知らない神と拝んでいる神は、天地を造られた全能の真の神の事であると語りました。しかし、復活について話すと人々はあざ笑い、信じようとはしませんでした。しかし、何人かは信じて救われたのです。
今、私達は先に天に召された兄姉を記念して、礼拝をささげています。キリストを信じて罪赦された者は、永遠の命を持ち、キリストが復活されたように、栄光の体に甦ることが約束されています。神のこれ以上ない愛の賜物です。アテネの人々の様にあざ笑ってはいけません。朽ちる者であったけれども、朽ちない者に変えられ、一瞬のうちに死者は復活して朽ちない者になるのです。(Tコリント15:52)
今この世に生かされている私達の最終的な希望は、復活という希望です。
この世にある時も、召されて後も、主イエスの命に生かされているのが、主イエスを信じている者です。
この地上では、旅人であり、寄留者であることを覚え、天にある故郷、御国を望み、全力を注いで主の御業に励むことこそ、神の賜物であることを覚えましょう。



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