阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年9月29日
「イエスの満たし」
マルコ8章1-10節

 主イエスは町々、村々を巡回されて人々に神の国の福音を伝えて、ガリラヤ湖畔までやって来られました。そこで、耳が聞こえず話すことのできない人を、「エファタ・開け」と命じられて癒されました。
不思議な御業はたちどころに広まり、多くの人々が主イエスの許に集まってきました。遠い所からやってきた人もいるでしょう。集まってから、すぐに3日も過ぎてしまいました。
主イエスは、弟子たちに「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」(マルコ8:2、3)と言われたのです。
弟子たちは、「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」(8:4)と答えました。
主イエスは弟子たちに、「パンは幾つあるか」とお尋ねになりました。パンは7つありました。
主イエスは群衆に地面に座るようお命じになり、パンをとり、感謝の祈りをささげてパンを裂き、弟子たちに人々に配るようにとお渡しになりました。弟子たちは群衆にパンを配りました。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りをささげて、それも配るようにと言われたのです。
7つのパンと少しの小さな魚を食べたのは、およそ4千人でした。女の人と子供は数えませんでしたから、実際にはもっと大勢いたのです。
人々は食べて満腹し、残ったパンの屑は7つの籠に一杯になりました。主イエスは、その後群衆を解散させ、他の地へ行かれました。
主イエスが、5つのパンと2匹の魚で、5千人の人々を満腹するまで食べさせたという出来事があります。
この二つの給食について、大変良く似ているので、同じ出来事ではないかと考える人がいますが、これは明らかに別の出来事です。
同じような奇跡が二回記録されているのです。
5千人の給食の時は、弟子たちが主イエスに、「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」(マルコ5:36)と提案しました。それに対して主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われたのです。
弟子たちは、「こんなに大勢の人に食べさせることはできません。
200デナリのパンを買っても難しいことです」と言いました。
その時に5つのパンと2匹の魚の奇跡が起こったのです。すべての人が食べて満腹になり、あまったパンくずは12の籠に一杯になりました。
今回の奇跡は、主イエスが弟子たちに、群衆を空腹のまま帰らせたくないと言われたのですが、弟子たちの答えは、5千人の給食の時とほぼ同じです。いったいどこからパンを手に入れてこれだけの人に十分食べさせるのかという反応です。
弟子たちは、すでにすばらしい奇跡を体験しているのに、同じように答えました。
人は、どのようなすばらしい奇跡を体験しても、真の神を待ち望むことを忘れるような弱さを持っています。
大きな奇跡と言えば、出エジプトをしたイスラエルの民は奇跡から奇跡の体験をしました。過ぎ越しがあって、すべての長子がうたれ、エジプトの王はイスラエルを去らせることを承知しました。イスラエルの民は道を急ぎました。故郷カナンへの道です。
ファラオは、イスラエルが去ってから、心が変わりました。大切な労働力を無くしてしまったと後悔して、軍勢を率いて追いかけました。イスラエルは、葦の海の前で宿営している時、追いかけて来るエジプトの軍隊を見たのです。人々は動揺し、神とモーセに不満をぶつけました。しかし、「恐れてはなりません。今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」(創世記14:13)と、御言葉を与えられ、静まるようにと指示されました。
不思議な事が起こり、海の水が分けられ、すべてのイスラエルの民が渡り終えるまで、それは続きました。人々は乾いた道を渡ったのです。     エジプトの軍隊が渡ろうとすると、海の水は元に戻り、全滅しなければなりませんでした。イスラエルは奇跡の神を体験しました。しかし、それからも問題が起こると、つぶやき、不信仰になってエジプトを恋しがり、挙句の果てには、不信仰の為ヨルダン川を渡れずに、40年間の荒野での訓練を受けなくてはなりませんでした。
やがて、40年が過ぎ、約束の地へ入る時、神は「わたしは40年の間、荒れ野であなたたちを導いたが、あなたたちのまとう着物は古びず、足に履いた靴もすり減らなかった」(申命記29:4)語って下さいました。神は、イスラエルがどのように不信仰であっても、必要を満たし、導き続けて約束の地まで導いて下さいました。
主は慈しみ満ち溢れ、憐みを持って導かれるお方なのです。
マルコ6章34節に、主イエスは、イエスの許に来る群衆をご覧になり、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐み」(マルコ6:34)、いろいろお教えになりました。主イエスから離れているなら、だれでも飼い主のいない羊のようであり、命を持つことはできません。
私達は、これらの出来事をとおして、主イエスのまなざしを知ることが出来ます。
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」(マルコ8:2)と言われました。三日も一緒にいるのに、食べる物がないことに心を痛めてくださいました。空腹のまま帰ったら途中で疲れ切ってしまうとも言われました。
主イエスは、人の魂を生き返らせ、また、体も気にかけ癒して下さるお方です。
主イエスを信じ、その教えに従う時に、主のすばらしい御業を見ることが出来ます。ありえない事が起こるのです。どうして7つのパンと少しの魚で4千人が満腹するまで食べられるでしょうか。
主イエスの憐みによる奇跡です。少しずつ食べたのではありません。満腹するまで食べたのです。パンくずが余るほどだったのです。
主イエスの愛と、満たしは、溢れるほど与えられています。
私達は、私達の手にあるものを、信仰をもって主イエスに渡す時、主はそれを素晴らしく用いて下さいます。
こんなに少しのパンと魚が、大群衆のためには何にもならないと考えてはいけません。主イエスに差し出すなら、主は豊かに祝福して用いてくださいます。
預言者エリヤは、神の指示で、あるやもめの許に行き、「わたしにパンを調理して食べさせてください」と頼みました。やもめは、飢饉の時だったので、最後に残っていた少しの小麦粉と油でパン作って食べて、その後息子と共に死を待つつもりでした。やもめの持っていたものは、二本の薪と、一握りの小麦粉とわずかな油でした。しかし、エリヤが語る神の言葉を信じて、それらを差し出したのです。彼らは久しく食べる事が出来ました。「壺の粉は尽きることなく甕の油は無くならない」と約束されたようになったからです。
私達が信じているのは奇跡の神です。生きておられる神です。
私達が持っているものすべて、神が私達に委ねられているものであるとすれば、見えるものであれ、見えないものであれ、「あなたのものですからご自由にお使いください」と明け渡して神を待ち望むことが、信仰であると言えるのです。
神は信じる者に豊かに聖霊を与えてくださいます。満たし、満ち溢れさせてくださいます。
主イエスにパンをいただいた人々はお腹が満たされ、またそれ以前に御言葉に満たされました。
主イエスこそ命のパンであることを知ることが出来たのです。私達はどのような時も自分を頼るのではなく、人を頼るのではなく、全てを満たして下さる主イエスを頼るのです。そして、主に私達の持っている少しのものを差し出す時、主はそれを豊かに祝福して御業を起こして下さるのです。主イエスは奇跡の神、豊かに命を与えて下さる神、私達が考える事が出来ないような事をなさる神であることを覚え、主イエスが満たして下さることを確信し、賛美し、主がやがて来られる時まで、待ち望みましょう



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