阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年10月6日
「神にはできる」
ルカ18章24-30節

 主イエスの許にある人がやって来ました。この人は、「議員」であったとあります。別の聖書には「役人」と訳されています。いずれにしても、若いけれど、人々の上に立つ人でした。
彼は主イエスに、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねました。地位も財産もある人でしたが、自分に足りないものがあることがわかっていました。
主イエスは、律法の5か条を示されました。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」と教えられました。
この議員は、「そういうことはみな、子供の時から守っています」と答えました。この5か条を即座に言えるという事は、十戒にある神に対する最初の教えも知っていて、守っているという事になるでしょう。「真の神以外のものを神としない」、「偶像を刻まない」、「主の名をみだりに唱えない」、「安息日を覚えて聖とする」、さらに終わりにある「隣人の家をむさぼるな」という教えにも通じている事を、胸をはって示したのです。
この答えを聞かれた主イエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」とお教えになりました。
そうすると、この議員は、非常に悲しんで帰っていきました。彼は、「大変な金持ち」だったからです。
主イエスは、彼の悲しむ姿をご覧になって、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(ルカ18:24、25)と言われました。この針の穴という言葉は、医師の使う針の穴という言葉が使われているので、文字通りらくだが針の穴を通るほうがまだ易しいという、あり得ない事を言われたのです。大きならくだが針の穴を通れるわけがありません。
これを聞いた人々は、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったのです。主イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)と言われました。
主イエスに永遠の命を得るために何が必要かと質問した議員は、主イエスに、「持って要る財産をすべて売り払って、貧しい人に施す事、それから従ってくるように」と言われて悲しんだのです。
彼は、金持ちであって、生活は豊かであり、地位もあり、神の戒めにも精通している者であると、自分も人々も評価していました。この世の事だけで考えるなら、これ以上ない幸いな人生と思えます。
しかし、この人は自分に欠けているものがあることに気が付いていました。永遠の命の確信がありませんでした。
ですから、「何をすれば永遠の命を得られるか」と質問したのです。
彼は、神の律法を知っており、それを守っていましたが、神を信じて神に頼って生きるという事はしませんでした。自分には財産があるので、それに心を用い、頼って生きたのです。
財産があるという事自体が悪い事ではありません。しかし、「銀を愛する者は銀に飽くことなく 富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。」(コヘレト5:9)とあるように、財産を心のよりどころとし、銀(財産)を愛するようになると、もっと欲しいという欲望と執着に生きるようになるのです。
富を神とするという誘惑に陥るようになります。この若い議員は永遠の命が欲しかったのに、主イエスのお言葉を聞いて悲しみながら帰っていきました。
この時代の人々は、財産がたくさんある人は、神様に祝福された人だと思っていたので、「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通る方が易しい」という言葉を聞いて驚きました。神様に祝福されていると考えていた人々が天国に入ることが出来ないとなれば、一体だれが天国に入れるのかと考えてしまうのです。
主イエスは、金持ちの議員に、財産に頼るのではなく、それを信じるのではなく、主イエスに全てを委ねて生きることを教えたかったのです。    財産がなければ生活ができない、今までのような贅沢ができない、生きていかれないと思うのが人間です。
それは金持ちだけではありません。もし、主イエスが人々にもそのように言われたら、どうでしょうか。やはり、悲しみながら帰るほかないかもしれません。少ないものならなおさら決して手放したくないというのが人間なのです。誰もこの議員を非難することはできません。いったいだれが針の穴を通るという不可能なことが出来るのでしょうか。
人の力で永遠の命をいただくことが出来るでしょうか。決してできません。人の願いや努力、財力で神の国に入ることはできません。
主イエスは、この出来事の時、すでに十字架に架かるためエルサレムへの歩みを進められていました。ですから、弟子たちにエルサレムで捕らえられ、侮辱され、鞭で打たれ、乱暴な仕打ちを受けて十字架に架けられ、三日目に復活することを予告されていたのです。
主イエスの十字架は、罪深く、なかなか主イエスの御言葉を悟らず、信じる事もなく、御心から離れている者たちを天国の民とするための十字架でした。人は人を救うことはできません。財産も人を救う事はできません。永遠の命を与えることがおできになるのは神様なのです。
弟子の一人、ペトロは、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました。」(ルカ18:28)と言いました。
ペトロは、ガリラヤ湖の漁師をしていました、弟のアンデレも、ゼベダイの子、ヤコブもヨハネも漁師でした。
ガリラヤ湖で夜通し漁をして、何も獲ることが出来なかった時、主イエスがもう一度漁をするようにと言われたので、そのお言葉に従った時、驚くような大漁であったという経験をしました。
この時、主イエスの「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」というお言葉に従い、「すべてを捨ててイエスに従った」(ルカ5:11)のです。
ガリラヤ湖で一生漁師として生きるはずであった者が、主イエスに召されて弟子となり、紆余曲折はありましたが、殉教するまで従う者となりました。
船や網、家といった財産や、漁師としての経験や、将来といったものを、主イエスに献げて従ったのです。
主イエスは、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(ルカ18:29、30)と言われました。
これは大変な事になったと思う必要はありません。家族を見捨てるという事ではないのです。テモテの第一の手紙には、自分の家族を大切にすること、親に恩返しをすることを学ばせることを教え、これは、神に喜ばれる事であるとあるのです。(参Tテモテ5:4)家族を大切にすることは、神が喜ばれる事なのです。
まず主イエスに従う事を第一にするという、優先順位を教えているのです。しばしば第一の事を後回しにして、第二以下の事を優先してしまう。そうするとすべてがうまくいかなくなることを知らなければなりません。主イエスにまず従う時、豊かな救いと祝福を頂くことができます。
「主イエスを信じなさい。あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)とあります。神にはできるのです。救い、永遠の命を頂けるのです。
主イエスを信じるとは、主イエスの御言葉に従う事です。ただ聞くだけであるなら、すぐに悪い者が来て、御言葉を心の中から取り去ってしまいます。何も起こりません。御言葉を聞いて、悟り、従う時、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶとあります。
私達は、どのようにして歩んでいるのでしょうか。私達が通ることのできない針の穴を通らせ、永遠の命を下さった主イエスの御言葉によって生きているでしょうか。あの若い議員が得たかった命を、私達は労することもなく、努力でもなく、ただ十字架の贖いによっていただくことが出来ました。これ以上の豊かさはないのです。恵みにより信仰により、求める者には無償で与えられる神の国の命を伝えて行きましょう。



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