阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年10月20日
「イエスの派遣」
ルカ10章1-12節

 私達は主イエスが真の救い主である事を信じ、また、十字架の贖いにより罪が赦された者となりました。
主イエスを信じる者は、神の子とされ、永遠の命を頂くことができたのです。永遠の命は決して失ってはならない大切な命です。
主イエスを心にお迎えしても、私達のこの世での立場は別に変わりません。
同じ住まいに住み、同じ家族と生活して、同じ学校で学びます。同じ職場で同じ仕事をしています。
しかし、この世にありながら、天に国籍を持つ者とされ、私達は神の子という身分をいただきました。主イエスに属する者とされました。
神の国から、その家庭に遣わされ、その学校に遣わされ、その職場に遣わされる者になりました。神の国の国籍を持つという身分をいただいたのです。
さて、主イエスが72人を派遣されたことが記されています。
派遣とは、昨今、雇用の形態を表す言葉の様に思われるのですが、「ある使命を果たすために他のところに遣わす」という意味なのです。ですから、派遣される人は、派遣する人から使命が与えられて、行くようにと言われたところへ行き、その使命を果たす事が役割となります。
クリスチャンの姿を良く表しています。主イエスから遣わされて、神の国の福音を伝えるという使命です。
主イエスは先に、12弟子を派遣されているのですが、そのほかに、
72人を任命されて遣わされました。その時、12弟子を遣わされた時の様に、注意や心する所を教えられて、出発させたのです。
主イエスは72人を2人1組にして出発させました。そして、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(ルカ10:2)と言われました。
主イエスは、収穫が多くなるように、働きなさいと言われたのではありません。主イエスは、収穫は多いと言われているのです。豊かな収穫の為に働く人が少ないので、そのための人を送って下さいと祈るように教えておられるのです。
もうすでに神様は豊かな実りを与えておられるのに、刈り取る人がいなければ、せっかくの実が空しい事になってしまいます。
刈り入れのために人が起こされるようにと祈る、そして、私達自身が主イエスのお招きの言葉に応答して、神の畑で働く者としていただきたいと手を上げることを示されたのです。
主イエスは72人を送るにあたって、さらにさまざまな指示をされました。
まず、「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」(ルカ10:2)と言われたのです。狼の群れと小羊では勝負になりません。しかし、子羊のような72人には、主イエスの権威が与えられました。これ以上な
い権威です。
これより前に12弟子を派遣された時、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。(ルカ9:1)とあるのです。
主イエスの権威と力は、何ものにも打ち勝つことのできる力です。
そして、財布も袋も履物も持っていくなと教えられました。私達は、旅をする時、あれもないと困るとかいろいろ考えて、荷物が多くなるのですが、財布さえも持つなと言われたのです。それは、必要なものは必ず与えられ、備えられている事を知るためです。
主イエスの働きのために遣わされる時、主イエスはすべてに配慮と責任を持ってくださる事を体験するのです。
主イエスは、「途中でだれにも挨拶をするな」と言われました。72人の派遣の目的は「神の国は近づいた」というメッセージをもってでかけ、各地で宣教することです。丁度ヨナが二ネべに遣わされてい行ったように、大切な使命があるのです。ヨナは召しを拒んでなかなか二ネべに到着しませんでした。大きな魚のお腹の中に飲み込まれるといった大きな寄り道をしました。
大切な使命をもって遣わされるのですから、顔をしっかりと前に向けてひたすら、そして、速やかに進む必要があります。
当時の人々の挨拶は長かったそうです。もしかしたら、そこから世間話が始まって、進むのが遅れるかもしれません。心を余計な事に向けずに一心に前進するようにとのお言葉なのです。一番大切な事に心を用いるようにという教えです。
この時代には、宣教のために町々に行くとき、受け入れてくれる家に留まることがありました。パウロはフィリピの町で、紫布の商人リデアに出会って、彼女の家に迎え入れられました。
神の国を伝えようとする人々を受け入れる者は幸いです。その家の平和と祝福が祈られ、それを受けるに値する人々の家には平和が宿りました。ヘブル語のシャロームは、平安があるようにという事だけではなく、神の救い、健康、繁栄、知恵など、ありとあらゆる神の祝福があるようにという言葉です。
主イエスは、72人の人々に、どこかの町、家に迎え入れられたら、そこに留まって福音を伝えるようにとお教えになったのです。
迎え入れられなかった時は、足の塵を払って、「しかし、神の国は近づいたことを知れ」と言うようにと教えられました。
悔い改めのない町は滅びに向かう事が示されました。悔い改める時に悔い改められるのは幸いな事です。
遣わされた72人が帰って来た時、どうだったでしょうか。彼らは喜んで帰ってきました。(ルカ10:17以下)
そして、主イエスに喜びの報告をしました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(ルカ10:17)主イエスの名に権威があるのです。
私達が祈る時に、なぜ主イエスの名によって祈るのでしょうか。
主イエスが「私の名によって祈れ」と教えて下さったからです。
「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16:24)と教えておられるのです。何度も同じことを教えておられます。(参 ヨハネ14:13 ヨハネ14:14 ヨハネ15:16 ヨハネ16:23)
これらの御言葉は、「イエスの名によって」、「何でも求めなさい」、「そうすれば」、「父は与えて下さる」という教えです。
私達がイエスの名によって祈る祈りは、イエスご自身の祈りなのです。このように祈ることが出来るのは、神の子の特権です。
自分が祈る祈りが主イエスの祈りとなるなら、恐れおののきつつ、敬虔さと信仰によって祈らなければなりません。
主イエスはまた、何を喜ぶべきかを教えられました。72人が帰ってきて、悪霊さえも服従すると報告すると、「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)と言われたのです。
目に見える伝道の成果や、大きな業を喜ぶのではなく、目に見えない命の書に名前が記されている事を喜べと教えてくださいました。
私達は主イエスの十字架による、自分の救いをしっかりと確信し、遣わされている所で、「神の国は近づいた」と語れるように、備える事が必要です。目を覚ましている事が求められています。
クリスチャンは、この世に生きながらも、主イエスにこの世に派遣されている者なのです。収穫は多いのです。働き手が起こされるよう、また私達も収穫の働き手として遣わされるよう、祈り、用いていただきましょう。



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