阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年10月27日
「キリストの十字架」
ローマ3章21-27節

 人は、誰でも心の中に罪を持ちます。それは、決して否定できない事です。なぜなら、神様が指摘されるのは、犯罪ではなく、心の中にある罪についてなので、誰もが罪がないとは言えないのです。心の中で人を憎んだり、裁いてしまう事があるのです。
犯罪は、心の中にある罪を実行してしまう結果です。犯罪を犯すと、裁判を受けて、その結果裁かれる事になります。
心の中にある罪は、誰にも分からないと思うのですが、神は知っておられ、裁きを受けなければなりません。神の裁きです。
人間と罪というテーマは重いものです。
誰でも、聖書が教える罪について知らなければなりません。クリスチャンであるなら、なおさら罪を知らないという事があってはならないのです。
罪とは、的外れという意味があります。それは、神の御心を外れて生きるという意味です。
神の御心は、全人格、全存在をもって神を愛し、人を愛するという事に尽きるのですが、なかなかそのようには生きる事はできません。
自分と全く関係のない人を愛することはできないからです。その事だけを考えても、人は罪が深いのです。
ですから、ローマ書3章1節には、「正しい者はいない。一人もいない。」とあるのです。
人には律法が与えられていました。ところが律法によっては罪の自覚が生じるだけで、神の前に義とされないとあります。
人は行いによって救われません。どんな行いも、神がお求めになる水準には達することが出来ないからです。「だれ一人神の前で義とされない」(ローマ3:20)とあります。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ3:21)とあるように、今こそ救いの時が来たと、高らかに救いの時の到来が告げられました。
それは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です。(ローマ3:22)とあります。
イエスをキリストとして信じる信仰によって救われる、恵みの到来を告げ知らせています。
それは、信じる者すべてに与えられる救いです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(ローマ3:23−24)
この御言葉は、罪のために神と断絶し、その栄光を受けられなくなっていた状態から、キリストの贖いによって、神の義とされたと教えています。しかも無償で、とあるのです。
「義とされる」とは、主イエスの十字架によって神と和解することができたということです。
罪のために神が分からず、自分の道を歩み続けて滅びに向かっていた者を引き戻し、贖い、神との正しい関係を持つ者とされたのです。
「贖い」という言葉は通常の会話であまり使う事はありません。しかし、聖書では良く使われている言葉です。
贖いとは、代価を払って人を買い戻す事であり、キリストは十字架で命を代価として払われ、尊い血潮を流され、人を贖い、罪から救われたのです。
キリストは、罪人のために十字架の贖いをなされ、神の恵みにより、「無償で」義として下さったのです。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。(イザヤ55:1−2)
主は、銀、すなわち代価を持たずにわたしのところに来るがよいと、招いておられます。何も持たなくてよいのです。わたしに来るなら、あなたは良い物で満たされ、魂はその豊かさを楽しむとあります。救いの豊かさです。
神は招いておられるのです。無償で救われる。代価は主イエスが十字架ですでに支払って下さいました。
主イエスが、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6:35)とお教えになったこととつながるのです。
無償で義として下さり、救い、良い物で満たされることを約束されています。
10月31日は宗教改革記念日です。1517年、マルチン・ルターは教会の教えと、聖書の教えが違う事に気が付き、ウィッテンベルグの城教会の扉に95か条の論題を張り出しました。
なぜなら、人は、免罪符を買う事によって救われると教えられていたのです。教皇は、大聖堂建設や、聖職売買のために巨額の資金を必要としていて、人々に免罪符を広めて資金を集めていたのです。
ルターも当初は問題視することもなかったのですが、過激な販売に疑問を持ち始めました。
当時はラテン語の聖書が教会と修道院に置かれていたのですが、それを読むことはできなかったのです。
ルターは、大学でローマ人への手紙を教えていたのですが、おりからエラスムスが訳したドイツ語の新約聖書が出版されたので、ルターは講義に使用することにしました。
 ルターは、「信仰による義人は生きる」(ローマ1:17)という御言葉に光を見出し、当時の教会が教えるところは、聖書の真理と違う事を確信するようになりました。
またたくまにルターの提示したところは全国に広まりました。ルターは、異端として告発されてしまい、逮捕されそうになったところ、ヴァルトブルグ城にかくまわれて、新約聖書を翻訳し、それが標準的なドイツ語となったのです。この城には、今もルターが聖書を翻訳したといわれる部屋が残っています。
ルターは、「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」を掲げました。御言葉により、信仰により、恵みによって人は義とされ救われるのです。
キリストの十字架は、神の愛の現れです。罪からの救いは、だれにもできません。行いによっても解決はありません。罪のために苦しんで、難行をしても解放はありません。
主イエスによらなければ救いはありません。十字架が神から差し伸べられた愛の御手です。
神様は義なる神です。その方が、罪人を義として下さるために、罪のない独り子を十字架に架けて下さいました。これ以上の愛の表し方はありません。
神の義を示されたのは、イエスを信じる者を義となさるためでした。
罪赦された者はどのように歩むべきでしょうか。救いを無償で受けました。しかし、神はイエス・キリストという方を贖いの供え物として差し出されました。大きな犠牲です。
私達は、この大きな犠牲のゆえに義とされ、神の子とされ、永遠の命を頂いて生かされている事を忘れてはなりません。
そして、差し出されている十字架による贖いを振り払ってはなりません。
 神が求められるのは、悔いた砕けた魂です。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)
義とされた者は、なおさら打ち砕かれた、悔いた心を軽んじる事はないのです。
悔い改めとは、神の方に向けて心の方向を変える事です。そのような心を神は決して軽んじる事はありません。悔い改めを受け入れ、赦し、新しい霊に満たして下さるのです。
私達は常に自分の心を探り、十字架の前に悔いた砕けた心を持つ者としてひざまずきたいのです。
キリストの贖いによって義とされた者にふさわしく歩む者でありたいと願い、御霊によって祈りましょう。



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