阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年11月3日
救いの喜び
ルカ15章1-7節

 ルカによる福音書15章には、主イエスが語られた3つのたとえ話が記されています。
迷子になった羊のたとえ話、無くした銀貨のたとえ話、3つめが放蕩息子のたとえ話です。
この3つの話に共通しているのは、「居るべき所から迷い出て、見失われてしまった」けれども、そういう状況から見つけ出され、羊は戻り、大きな喜びの声が上がったという事です。銀貨は見つかりましたし、放蕩息子は悔い改めて父の許に戻りました。
主イエスは、人々から罪人とみなされ、軽蔑されていた者たちを軽んずることはありませんでした。
徴税人や、罪人たちが主イエスの話を聞こうとしてやってきた時、ファリサイ派や、律法学者たちは、主イエスを非難しました。
「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15:2)と言ったのです。彼らは、自分たちは聖い者であると思っていたので、罪人たちとは決して交わることはしませんでした。
そこで、主イエスは、たとえでお話を始められたのです。
100匹の羊をもっている人が、1匹を見失ったらどうするか。99匹が残っているので、1匹はそのままでよいと考えるだろうか、と問いかけられました。その1匹を見つけるまで探しまわるのではないかと言われました。
私達にとって、羊はあまり身近な動物ではありませんが、聖書にはよく羊や羊飼いが登場します。詩編23編には、羊飼いと羊である主と私達の関係が良く記されています。
また、主イエスはご自分を良い羊飼いと言われています。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と宣言されました。
羊は大切に飼われていたのです。羊は視野が狭いと言われています。遠くを見渡すことはなく、目の前の草を食べるのだそうです。迷ってしまうと自分では帰ることができなくなってしまいます。
迷ってしまえば、命を失う危険性が高いのです。
主イエスは、どのような時でも罪人の友となって下さいました。
徴税人とは、言うまでもなく、ローマ帝国のために、ユダヤの人々から税を取り立てる人の事です。しかし、ローマから給料は出ていませんでした。ローマに支払う税金に上乗せして人々から徴収し、定められた金額の残りを自分の物としていました。ですから、ユダヤ人に嫌われ、また、ローマからも疎んじられ、罪と孤独の中に生きる者が多かったのです。
主イエスは、「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」(ルカ15:4)と言われたのです。
主イエスは、「羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(ヨハネ10:3)と言われました。
ここでは羊が何匹いたのかは記されていませんが、かなりの数であろうと思われます。羊には名前がついていて、名前を呼んで導き出しているとあるのです。これは本当に驚くべきことです。
羊がどれほど多くても、名前があって呼び出されます。そして、羊飼いは先頭に立って導いてくださるのです。
羊は、番号で呼ばれるのではなく、1匹1匹が大切な存在として導びかれるのです。
その大切な1匹がいなくなってしまったら、99匹が残っているのでそのままでよいとはされません。羊飼いは、99匹を野に残しておいて、見失った1匹を探し回るのです。
見出した時喜んで羊を担いで帰ってきます。その喜びは自分のものだけではなく、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(ルカ15:6)と呼ばわるほどでした。
このたとえ話の結論として、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天ある」(ルカ15:7)とあります。
「主イエスは、悔い改める必要のない99人」と言われたのですが、悔い改める必要のない人などいるのでしょうか。このたとえ話は、ファリサイ派の人たちと、律法学者たちに向けられたものですから、ここに、主イエスの逆説的な言い方を見ることが出来ます。
あなたたちは、自分たちは聖い者であり、神の戒めを落ち度なく行っていると考えているかもしれない。しかし、徴税人や罪人を見下していて、高慢な者でしかない、と言っておられるのです。
主イエスは、「実にあなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(ルカ11:39)と言われています。徴税人たちを罪人と決めつけているが、実は、あなたたちの心の中は罪で満ちていると指摘されたのです。
主イエスは、罪人を救うために来られました。12弟子として召されたマタイは徴税人でした。主イエスの招きに応じて直ちに従い、喜んで自分の家で盛大な宴会を行いました。そこに、徴税人や罪人が集まったのですが、ファリサイ派の人々は、ここでも罪人と食卓を共にすると言って主イエスを非難しました。その時主は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31)とお教えになったのです。
「悔い改める必要のない人」、「正しい人」、それは、自分の心の中にある罪を認めようとしない人々であると考えることが出来ます。心の目が見えず、自分の高慢な罪の姿が分からないのです。
それはファリサイ派の人々だけではなく、人に共通する罪です。人は、自分には罪はない、自分は正しいと思うからです。
見失った1匹は見出されました。大きな喜びが天にあります。99匹も救われなくてはなりません。
「救い」を考える時、現実の生活の中の救いがあります。人は、経済的な問題、病気、人間関係、家族の問題、さまざまな悩みを持ちながら生きなければなりません。それらが解決される時、現実の問題から「救われた」と言います。
私達は、根本的な救いを知っています。それは、主イエスの十字架の贖いにより、罪が赦されて、魂の救いをいただいたという事です。
神に立ち帰ったのです。それは、自分の力によるのではなく、神からの賜物でした。主イエスの十字架により、罪の代価が払われて救われたのです。天に大きな喜びが沸き上がりました。根本的な救いにあずかると、世の様々な問題からも解放されるという体験をします。
救われた者は、救いの喜びに満たされ続けます。それは、聖霊の喜びです。救われた者は神の国の民です。神の国は、「飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)。
羊飼いに見いだされて帰る事の出来た者は、救われて永遠の命を頂き、神の国の喜びと平安、神の義に満たされながら生きるのです。
神の許に帰る事こそが「悔い改め」です。生き方の方向を変えたのです。
パウロは、自分は正しい者だと思っていました。主イエスを信じる者を迫害することが神の御心と信じていました。ですから、クリスチャンを捕らえては、ひどい目に会わせるようなことも平気でした。
しかし、復活の主イエスに見いだされた時、回心したのです。迫害する者から宣教する者に変えられました。迫害されながらキリストを宣教して、投獄されながらも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(フィリピ4:4)と語り続けました。どのような境遇にあっても、命が危うくても、その喜びは魂の奥から沸き上がるものなのです。誰も奪う事はできません。
救いの喜びです。喜びが主に仕えていく原動力になります。
私達を救うために十字架に架けられた主イエスの愛を忘れてはいけないのです。私達一人一人をこよなく愛され、その名を呼んで導き続けて下さる主イエスに従い続けて行きましょう。失われた人々を探し回る主イエスと共に行く者は幸いです。主と共に救いの喜びを伝えて行きましょう。


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