阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年11月10日
子供を祝福される主
ルカ18章15-17節

 日本では、昭和26年5月5日に児童憲章が制定されています。すべての児童の幸福をはかるための憲章です。「児童は、人として尊ばれる」、「児童は、社会の一員として重んぜられる」、「児童は、良い環境のなかで育てられる」と最初にあります。
子供は、誰でも守られ、重んぜられ、尊ばれる存在であると宣言したのです。それ以前には、子供は大切ではあるけれども、一人の人として尊ばれるという考え方はなかったのではないでしょうか。主イエスは
2000年も前に幼子が重んじられる存在であることを示し、教えておられるのです。
聖書の時代でも、子供は弱い者で、あまり価値のない存在とされていました。病気などで成人できない子供たちも大変に多かったのです。
ある時、人々が主イエスの許に子供を連れて来ました。手を置いて祝福を祈っていただきたかったのです。当時、有名なラビが来ると、祝福を祈ってもらうという習慣がありました。
この出来事は、マタイによる福音書19章と、マルコによる福音書
10章にも記されています。マタイとマルコには、「子供たちを連れて来た」とありますが、ルカは、「乳飲み子までも連れて来た」と記しています。
この時、多くの人々に福音を伝えて、主イエスも弟子たちも疲れていたと考えられます。そのような時にまた人々が小さな子供たちを連れて来たので、弟子たちは、彼らを叱ったのです。小さな子供達や、まだお乳を飲んでいる赤ちゃん達は、あまり静かにしてはいないでしょう。大きな声を出したり、泣いたり騒がしい様子を伺えるのです。
弟子たちは、なんで子供を連れて来たのか、騒がしい、早く帰れと、人々を叱りました。
しかし、主イエスは乳飲み子たちを呼びよせて、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(ルカ18:16)と言われました。
主イエスの心は、いつでも弱い者や、苦しむ者、悲しむ者に向けられていました。当然、幼子を祝福されるお方なのです。
ルカ7章には、ナインという町で、やもめの一人息子の葬列に出会うという出来事が記されています。たった一人の息子が死んでしまった。
この母親は未亡人でしたから、子供を失った悲しみと同時に、これからの生活にも困難が待ち受けているのです。未亡人や孤児には生活の手段がありませんでした。母親は泣き崩れていました。主イエスは、この母親をご覧になって、「憐れに思い、『もう泣かなくても良い』」(ルカ7:13)と言って下さいました。息子を甦らせて母親にお返しになったのです。周囲の人々は敬虔な恐れに満たされて神を賛美しました。
主は、慰めと憐みに富むお方で、悲しむ者の涙を拭うお方です。このやもめの心は、主イエスの慰めと平安と喜びで満たされたのです。
当時、数に入れられなかった幼子を主イエスは愛して受け入れて下さいました。小さな者もその一人一人が大切で、祝福の中に生きるようにと祈られたのです。
主イエスは幼子を重んじて下さいました。
ある時、弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論をしていました。彼らの最大の関心事だったようです。この世の人間の関心事です。その時、主イエスは一人の子供の手を取って、ご自分のそばに引き寄せられ立たせました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(ルカ9:48)と教えられました。
最も小さい存在を、主イエスの名によって歓迎する者は、主イエスを歓迎する者であり、父なる神を受け入れる者であり、あなたがたの中で最も心の遜った(へりくだった)者が、最も偉い者であるという、主イエスのお教えを、心に覚えたいと思います。
主イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(ルカ18:16)と言われました。弟子たちは、このお言葉を聞いて驚いたのではないでしょうか。神の国には、立派な偉い人が入ると思っていたからです。
まだ物心がついていないような赤ちゃんは、両親に抱かれているだけでしょう。まだ何もできないし、力もありません。
しかし、抱かれている子供は、一番安心な場にいて安らぐのです。全面的に信頼し、身を委ねるだけです。
私達は、主イエスの胸の中に委ねきって安心しているでしょうか。
「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(ザヤ40:11)とあります。
主イエスは良い羊飼いです。子羊を懐に抱かれて、その母羊をも導きながら先頭に立って行かれるお方なのです。
何も疑わないで主イエスの懐で安らげるとは最高の幸せです。
生活の中で様々な問題や試練にあっても、私達は主イエスの懐に抱かれている事、主イエスは完全な救いを用意しておられることを、幼子の様に信じられる人は幸いです。私達にはともすると、主イエスの懐から飛び出して、あたふたと主イエスより先に走り出すようなところがあるのです。主イエスが与えて下さる解決を自分で引き延ばすようなことがあってはなりません。
幼子たちは何も分からないのではありません。両親や周囲の大人たちが主イエスの御言葉を聞き、祈り、礼拝し、賛美し、従う姿を見ています。まだ言葉も語れない乳児であっても、肌から福音は入って行きます。
主イエスが十字架に向かわれる週の初め、エルサレムに入城されて、神殿の境内で商売していた人々を追い出され、宮清めをなさいました。そして、目の見えない人や、足の不自由な人々を癒されたのです。
その時、律法学者や祭司長たちは、主イエスのなさった不思議を見、また宮の境内で子供たちが、「ダビデの子にホサナ」と賛美の声を上げているのに腹を立てたとあります。子供たちまでが主イエスを賛美し、叫んでいたのです。彼らは主イエスに、「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」と言うと、主イエスは、「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(マタイ21:16)とお答えになりました。詩編8編2、3節の御言葉です。
神は、子供と乳飲み子の口によって完全な賛美を用意されたという意味です。幼子たちは神を賛美するのです。
主イエスは、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18:17)と言われました。主イエスが、「はっきり言っておく」と言われるのは、特に大切な事を教えておられて、「アーメン、アーメン」まことに、まことにという言葉で始まります。心を正して、しっかり聞きなさいという意味です。子供のように神の国を受け入れるのでなければ、決して入ることはできないとあるのです。
幼い子は、素直に御言葉を受け入れます。素直に信じて祈ります。主イエスを信じてその懐に憩います。
主イエスが、「子供のように」と言われたのは、子供のように素直で、純真で、疑わないという意味と考えられます。
主イエスを救い主として心に受け入れた者は、新しく生まれた者です。尊い十字架の犠牲によって罪が赦され、神の子としていただきました。
聖い御霊に満たされて、その心が変えられて行きます。主イエスの御性質に似る者とされたのです。
頑なで高慢な心も砕かれて変えられます。誰でもキリストにあるならその人は新しく創造されるのです。幼子の様な信仰を持って、どこまでも主に導かれることが喜びになります。
主は、神の国に「決して入ることが出来ない」ような者を、十字架の血潮で清め、造り変えて幼子のような者にされました。神の恵みであり、賜物です。
しっかりと主イエスを見上げ、導かれるままに従い、御言葉を喜びとして、神の栄光を表す日々を送らせていただきましょう。幼子たちの口に賛美をお与えになる神を褒め称えましょう。



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