阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年11月17日
闇から光へ
使徒26章12-18節

 使徒パウロは、使徒言行録の中で、3回自分の回心について証しをしています。使徒26章は、3回目の記録で、アグリッパ王の前でどのようにしてキリストを信じる者となったかを証言しています。
このアグリッパ王は、ヘロデ家の最後の王ですが、代々ヘロデ家は、信仰者を迫害する不敬虔な王が続きました。
アグリッパ王は、アグリッパ2世ですが、その父のヘロデ・アグリッパ1世は、使徒ヤコブを処刑し、ペトロを投獄した王です。(使徒12:1)アグリッパ1世が不敬虔の罪によって急逝したことにより、2世となりました。
パウロは、ユダヤ人たちによって訴えられて投獄されていましたが、無実を主張し、ローマ皇帝に上訴していました。
時のローマの総督フェストウスは、パウロのローマ護送を決定しました。
アグリッパ王がフェストウスを表敬訪問した時、フェストウスは、パウロの事を話しました。すると、アグリッパ王は、パウロの話を聞いてみたいと希望しました。
翌日盛装したアグリッパと、妻のベルニケが法廷にやって来ました。千人隊長や、町の主だった人々も集まりました。
フェストウスは、パウロは死罪に相当するような者ではない事を知っていました。罪状の根拠がなく、ローマ皇帝に護送するにしても、罪状がなければ困るので、パウロにアグリッパの前で話すようにと促しました。
盛装したこの世の王と、貧しい囚人としてのパウロの姿は対照的であったと思われます。
パウロはアグリッパに手を指し伸ばして、かつては自分が厳格なファリサイ派に属する者であり、ナザレのイエスに反対する者であったことを語ります。祭司長からの権限を受け、キリスト者を捕らえ、時には死に至らせたことを語ります。
しかし、ダマスコへの途上で、復活の主イエスに出会いました。その時の様子を、「私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました」(使徒26:13)と語りました。
パウロ、(その時の名はサウル)と同行者たちは、天からの強い光を見て、地に倒れました。
その時、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う。」(使徒26:14)という御言葉がヘブライ語で語られたのです。
とげの付いた棒とは、牛を耕作に使う時などに使う棒のことでした、文字通り、とげがついている棒で、牛を制御するために使われました。
主イエスは、クリスチャンを迫害することは、私を迫害する事であって、それは、とげのついた棒をける事だと教えたのです。
パウロは、「あなたはどなたですか」と聞くと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」とお答えになったのです。
そして、パウロを救い、奉仕者、主の証人として、ユダヤ人や異邦人に遣わすことを示されました。
主イエスは、この後のパウロの働きについて、「彼らの目を開く」こと、「闇から光に」移し、「サタンの支配から神に立ち帰らせる」事と語られました。
主イエスによる救いは、このような事なのです。
まず、目が見えていると思っていても、霊の目が見えていない状態から、見えるようにされる事です。
パウロは、何もかも分かっていると思っていました。厳格なファリサイ派に属し、有名なガマリエルという学者の弟子であり、議会の議員であって、立派な者だと思っていました。
迫害することは神の御心だと思っていましたが、実はそうではなかったことに気が付いたのです。見えていなかったのです。
人は、罪という闇の中を歩まなければなりません。闇は何も見えないのです。闇とは罪です。罪なのですが闇の中では罪はわかりません。
主イエスに出会う前、パウロも闇の中にいました。私達も実は闇の中を歩んでいました。しかし、主イエスによって闇から光の中へと導き入れられました。かつては、「サタンの支配」の下にあった者でした。
肉の欲に生きて、罪に仕える奴隷として、死に至る者でしかありませんでした。
パウロは、イエスこそ救い主、キリストであることを信じてから、今まではエリートユダヤ人であった者が、同胞たちから嫌われ、迫害される者になってしまいました。鞭うたれ、投獄され、暗殺の恐れさえあるような、苦しい目に会わなければなりませんでした。
普通に考えると、光の中から闇の中に落ちてしまったように思えるのです。しかし、闇の中から光へと導かれたと言っているのです。罪から解き放たれたからです。
主イエスは、罪に縛られ、闇の中にある者を解放するために来てくださいました。
主イエスを知らないままでいるなら、何も見えず、闇に中を歩んでいます。自分が闇の中にいることすらわかりません。
闇の中では自分の姿はわかりません。光に照らされて初めて自分の姿が見えるのです。
もし、自分が暗闇の中にいることに苦しさを覚えるなら、光を求めます。自分にとっての光です。この世のお金や、権力、楽しみ、趣味、それらが光の様に思えて執着するようになります。しかし、それらは無くなってしまうものです。サタンの働きは、人がこの世の物に心を寄せ、執着することを助ける事です。救いから引き離すことがその業です。惑わされてはいけません。
主イエスは、「わたしは世の光」と宣言してくださいました。
「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われました。
パウロは、自分は真の光の中に導かれた事を確信しました。ですから、今まで自分が大切に思ってきたものを、「塵あくた」(フィリピ3:8)とみなしていると記しました。キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみていると言い切りました。
主イエスは、私達の心の中にも、闇、罪があることをご存知です。
ですから、「わたしに従いなさい」と言われているのです。わたしの光に照らされなさい。あなたの闇も罪もわたしが十字架に釘づけして、解放したことを受け入れなさいと、招いておられます。
主イエスは、パウロを遣わし、「彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、」(使徒26:18)という主イエスの福音を委ねました。それは、罪赦され、聖なる人、聖別された人々と共に、受け継ぐべき恵みを頂くためなのです。
受け継ぐべき恵みとは、永遠の命であり、神の国の民とされ、神を賛美し、失う事のない平安と喜びに溢れる事です。
光の中に導かれ、光である主イエスと共に歩むことは何にも代えがたい恵みです。主イエスは光としてすべての人を照らすために来てくださいました。
パウロが遣わされたように、私達も主イエスの光を伝えるために用いてくださる事を感謝します。
ここに真の光と救いがある、暗闇から解放し、永遠の命を下さるお方がおられることを語り続けて参りましょう。



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