阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年11月24日
主の道をまっすぐに
ルカ3章1-14節

 今年も11月が終わり、12月を迎えようとしています。来週12月1日から24日までが今年のアドベントの期間になります。
12月8日には、GGCよるクリスマスコンサートが行われます。美しい案内チラシができていますので、活用して多くの方々をお誘いください。
クリスマスというと、さまざまな計画も多く、何かと心せわしいのではないかと思います。クリスチャンは、神である主イエス・キリストが全世界の罪を贖うためにこの世に来られたことを忘れてはいけません。キリスト抜きの、世の中の楽しみだけのクリスマスなどあり得ません。
単なる年末の行事で、人の楽しみの為だけであるような風潮に流されないようにしていきたいと思います。
救い主がこの世にお生まれ下さり、全世界の人々の罪の贖いとなられて十字架で死なれた事、三日目に甦られた事を、クリスマスにはしっかりと確認していきたいと思います。
主イエスが30歳で公の生涯に入られる時、バプテスマのヨハネが登場して人々に悔い改めのバプテスマを授けました。
ルカによる福音書によれば、「皇帝ティベリウスの治世の14年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、アンナスとカヤファが大祭司であった時」、神の言葉が荒野でザカリヤの子ヨハネに降った」(ルカ3:1、2)とあります。 
ルカはその年代を詳しく記録しました。皇帝ティベリウスは、ローマの第二代の皇帝です。主イエスの誕生の時の皇帝はアウグストゥスでした。アウグストゥスは、紀元14年に死去しているので、ティベリウスの治世15年というのは、西暦29年頃と思われます。ティベリウスの年代だけでも良いのに、ルカは、ポンティオ・ピラトや、大祭司のアンナスとカィヤファの名まで挙げています。この人々は、いずれも主イエスの十字架と深くかかわりを持つというより、実際に十字架に架けた人々になるのです。
この時期にヨハネは荒れ野にいました。そして、神の言葉が降ったのです。ヨハネは自分の使命を知っていたと思いますが、確かな神の言葉によって活動を始めました。
主イエスがこの世に来られて、すべての人の救い主となられることは、神の救いのご計画であり、ヨハネも神の言葉によって召されて、働きを始めました。
ルカ1章80節には、「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人人の前に現れるまで荒れ野にいた」とヨハネの事を記録しています。
ヨハネはヨルダン川沿いの一帯で、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。
これは、イザヤ書の預言の成就でした。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」イザヤ書40章3〜5節の御言葉が成就したのです。
山や丘を崩して谷を埋めて、曲がりくねった道は平らにせよという御言葉です。もちろん土木工事の勧めではありません。
整えなくてはならないのは、「主の道」です。ヨハネは主イエスの道、メシアの道を整えるために遣わされました。
約束のメシアが誕生し、その働きが始まる時を迎えているのに、主の道は整えられていませんでした。
人人の心の中には罪が満ちていて、荒れ果てているので、神の救いを受ける用意がなかったのです。せっかく神の独り子が来られたのに、そのままでは救いを受け入れる事はできません。
ヨハネは人々に叫びました。罪の赦しのバプテスマを伝えました。「悔い改めのバプテスマ」こそ、道を整える事なのです。
 詩編51編は、ダビデが罪を犯して預言者ナタンに指摘された時、悔い改めて作った詩編です。
ダビデは王になり、その地位が安定すると、心が緩んでしまいました。
自分の欲に負けて恐ろしい罪を犯しました。王ですからだれもダビデを糾弾できないと思ったでしょう。しかし、神はすべてを知っておられ、預言者ナタンを遣わして罪を明らかに指摘しました。
その時、ダビデは悔い改めをしたのです。
「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐みをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。」(詩編51:3,4)
ダビデは「背きの罪」、「わたしの咎」、「罪から清めてください」と3つの言葉で罪を言い表しました。背きの罪とは、神の言葉に従わない
罪です。アダムとエバがエデンで神の御言葉に従わなかったような罪です。咎は、曲がるという意味があり、道徳的な罪を表す言葉です。罪とは、的を外すという意味があります。神との正しい関係が外れている事です。いずれにしても、人は心に罪を持ちながら、それを正しく解決することが出来ませんでした。
ダビデは、王として過ごす中でいつのまにか神との正しい関係を持たなくなってしまったのでしょう。時として人は、逆境の中では神を呼び求めるのですが、平穏な中では心が神からそれてしまうような事があります。本当に気を付けなくてはなりません。
多くの人々がバプテスマを受けようと、ヨハネのもとにやって来ました。ヨハネは彼らに厳しい言葉を投げかけます。「蝮の子らよ」と呼びかけました。二つの事を伝えます。「我々の父はアブラハムだ」という考えを起こさない事と、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という事です。
自分はアブラハムの子孫で、イスラエルの神の民であるから、神の怒りを受けるはずがないと思って、悔い改めをしようとしない人々に向かって語られた言葉です。神の民であるからこそ、悔い改めて神の許に帰る必要があるのです。
誰でも、心を変えて神の許に帰ること、これが悔い改めなのです。
そして、この悔い改めが主の道をまっすぐにすることです。悔い改めにはその悔い改めの実がかならず実ります。悔い改めの結果と考える事ができます。
群衆は、ヨハネに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました。
ヨハネの答えは簡単明瞭な、具体的なものでした。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(ルカ3:11)徴税人の問いには、「規定以上のものは取り立てるな」(ルカ3:13)。兵士の問いには、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と教えました。(ルカ3:14)
 大変難しい事が示されたのではありません。持っている者が持たない者に分けるという事と、規定以上の者は取り立てない、金をゆすり取らない、だまし取らないという当たり前のことが教えられたのです。「自分の給料で満足せよ」とは、今、与えられているものを感謝することで、もっと欲しいと思う事は御心ではない事に気づくのです。
悔い改めの実とは、生活の中の普通の事を普通にすることに気が付かされます。このように教えられた人たちがその通りに生活することが実になり、それがやがて豊かな実となるのです。
私達は主イエスを迎える心の道備えをしたいのです。
そして、主イエスがこの世に来て下さり、十字架への歩みを続けられたことは、人々の心の罪の道を平らにし、父に至る道、救いの道を与えて下さったことを知ります。
アドベントの一週間前ですが、クリスマスを迎えるにあたって、もう一度私たちは自分自身の心の中の道を平らにして、主イエスをお迎えする準備をしていきたいと思います。
主イエスの十字架の血潮によって清められ、救いの喜びに満たされてクリスマスを待ち望みましょう。



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