阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年12月8日
いのちのパン
ヨハネ6章35節

  アドベント第二週に入りました。今日は、午後2時から祈り備えて来た、GGCのクリスマスゴスペルコンサートがあります。
ゴスペルとは、福音、即ちキリストご自身の事です。
主イエスがこの世にお生まれ下さり、多くの人を癒し、慰め、罪を赦して命を与えて下さった事、また、心に喜びと平安を与えて下さったこと、永遠の命を感謝し、賛美します。主イエスとその御業、愛を歌います。
主の豊かな臨在の中にコンサートが進められるよう、また救いの御業があらわされるよう祈り続けたいと思います。
クリスマスは、自分自身の信仰を見つめなおし、悔い改めて救い主を待つ時でもあります。
御言葉を慕い求め、祈りつつクリスマスを待ちましょう。
主イエスは、御自分を、「わたしがいのちのパンである」と、言われました。
主イエスは、大勢の群衆が来るのをご覧になり、「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか」(ヨハネ6:5)と、弟子のフィリポにお聞きになりました。
当然、フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。
200デナリオン、160万円分位のパンでも足りないのです。
そこに大麦のパン5つと魚二匹を持っている少年が紹介されます。しかし、アンデレが、「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と言ったのです。
主イエスは、人々を座らせるように命じられて、パンを取り、感謝の祈りを唱えられてから、座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして欲しいだけ与えたとあります。
人々は、満腹するまで食べました。パンの屑は12のかごに一杯になりました。
男の人だけで5千人もの人が食べたのです。
満腹した人々は、主イエスを、王にしようとしたので、主イエスは山に退かれたのです。
ローマ帝国は、人々を治めるために無料でパンを配り、娯楽を与えました。人は、パンと娯楽があれば満ち足りるものと考えたのです。
この時、人々が食べたのは当然食物のパンです。
人々は主イエスを捜して、カファルナウムまで追いかけていきました。
主イエスは、その人々に対して、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である」(ヨハネ6:26,27)とお教えになりました。パンを食べてお腹がいっぱいになった。またお腹を満たすためにパンが欲しいと、主イエスを捜したのです。
主イエスは、食べてしまったらなくなる食物ではなく、いつまでもなくならない、永遠の命に至る食物」のために働くようにと言われたのです。人々はこの御言葉の意味が理解できませんでした。一体何をどうすればよいのかと聞きました。
主イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること。それが神の業だ」(ヨハネ6:29)と言われました。
ただ、神が遣わされたメシア、キリストを信じる事であると教えてくださいました。
ところがなおも、「自分たちが見て信じることができるために、どのようなしるしを行って下さいますか」と、反問しました。
自分たちの先祖は荒野でマナを食べたことを例にあげたのです。
食物のパンの事で頭はいっぱいのようでした。
主イエスが魂の救いの事をお示しになって、命のパンの事を話されても理解しません。
主イエスの御言葉を聞いてもなかなか理解せず、信じない心というのは、人間に共通するところではないかと思います。
見ないと信じない、しかし奇跡を見ても信じないというのが人の心の頑なさと罪なのです。
そのような人々に、主イエスは忍耐をもってお答えになり、真理を示して下さいました。
人が生きるという事は、毎日食物を食べて、息をして、働いて生きるという事だけではありません。生きがいがあれば生きられるという事でもありません。
体の命が保たれることは大切ですが、主イエスは、それだけでは生きているとはいえないと教えておられるのです。
主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われたのです。
人は、きれいな花が好きです。春には桜を喜び、秋には紅葉を楽しみます。音楽が好きです。絵画も鑑賞します。これらはお腹に入るものではありません。芸術と呼ばれるものは食べられません。
しかし、人はそれらを喜び、求めます。心を満たしたいからです。
それは、神に創造された証拠の一つです。お腹は満たされなくても心が満たされるからです。しかし、それらもこの地上だけのものでしょう。
主イエスはご自分を「命のパン」と言われました。「天から降って来て、世に命を与えるものである」とも言われました。
主イエスを救い主として信じ、受け入れる者は、「決して飢えることがなく、決して渇くことがない」と約束されました。
主イエスがこの世に来られたのは、この世に命を与えるため、永遠の命を与えるためでした。
体の命はいつか尽きるでしょう。いくらパンを食べても永遠には生きられません。だれでもこの世の命は終わります。
しかし、命のパンを食べた者は、飢える事も渇くこともなく、永遠の命に生かされます。魂の救いです。
主イエスがベツレヘムの家畜小屋でひっそりとお生まれになったのは、御自分を命のパンとしてこの世に差し出すためでした。
神の御子は、出産の場所としてはふさわしくない、これ以上ないほど低い姿勢でお生まれになったのです。
メシアの誕生を星の出現で知った東の博士たちはヘロデの宮殿へ行きました。王なら宮殿で生まれるに違いないと思ったからです。
ところが、主イエスは、家畜小屋で生まれ、罪のために神と断絶している世の人々を神と和解させ、もう一度神の許に帰ることが出来るようにと、十字架への道を歩まれ、命を捨ててくださいました。
主イエスは、カファルナウムの会堂で、繰り返し、繰り返し、御自分が命のパンであることを語って下さいました。
私達は、この方こそが唯一の救い主であり、真の神であることを信じ、十字架の贖いによって神の子とされたことを信じます。
命のパンである主イエスを信じ、その御言葉をしっかりと受け入れて歩む者でありたいと願います。
星野富弘さんは、クリスチャン以外にも良く知られている方です。1970年に体育の教師となりましたが、その年の6月に頸椎損傷の事故で体が不自由になってしまいました。
しかし、主イエスの光を見出し、1974年に病床で受洗しました。体は不自由になりましたが、口に絵筆を加えて美しい絵を描き、また、心から沸き上がって来る、信仰に基づく言葉が評判を呼び、多くの人を慰めるようになったのです。
体育の先生だった人が、美術館を二つも開館する人となったのです。
眠っていた賜物が開花し、用いられるようになったのは、「命のパン」を食べたからです。
主イエスを救い主として心に受け入れた事により、神に用いられる人に変えられました。魂が生かされたのです。
慰められるよりも、慰めを与える人として生きるようになりました。
命のパンである主イエスは、私達にも永遠の命を豊かに与えてくださいました。魂の糧である主イエスと、その御言葉を慕い求めて、主の用に立つ事ができるよう、祈り、励ましあい、証しの生活をすすめていきましょう。



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