阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年12月15日
道・真理・命
ヨハネ14章1-6節

  アドベント第三週に入りました。来週は、クリスマス礼拝です。また、21日には、恒例のファミリークリスマスをお祝いします。家族や友人、求道中の方々を誘ってください。今日は、午後2時からSSクリスマスがあります。子供さんたちが大勢集まってクリスマスをお祝いするようお祈りしましょう。
先週は、幸いなゴスペルコンサートを行いました。大勢の方々が来会され、初めての事でしたが、ボーイスカウト20団の子供さんたちが9名来られました。GGCが用いられたことを心から感謝します。救いを祈り続けましょう。
さて、主イエスは弟子たちに、「心を騒がせるな」(ヨハネ14:1)と言われました。最後の食事の席での事でした。
主イエスが、「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができないとユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(ヨハネ13:33)と言われたので、心が騒いだのです。そして、更に、ペトロが「主よ、どこへ行かれるのですか」とお聞きすると、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」(13:36)とも言われたので、主イエスがどこかへいかれて、そこへはついて行くことが出来ないと、心が騒ぎました。不安を覚えたのです。
人は、理解できない事があると、心に不安を感じます。また、愛している人がどこかへ行ってしまい、そこについて行くことが出来ないとなれば、さらに不安を持つ事でしょう。
弟子たちは、主イエスの言われることが理解できませんでした。
ペトロは、主イエスに、「なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と伝えると、主イエスは鶏が鳴くまでに、あなたは3度わたしのことをしらないと言うと予告されました。まさしくこれから大祭司の庭で起こることを予告されたのです。
混乱気味の弟子たちに、主イエスは慰めの言葉を掛けてくださいました。「心を騒がせるな」というお言葉です。
主イエスを信じ、父なる神を信じることを教えてくださいました。
そして、主イエスは、父の家にあなたがたの場所を用意しに行き、場所が用意できたら、あなたがたをわたしのもとに迎えると約束されたのです。
主イエスは、主イエスを信じる者のために、天の御国を用意してくださいます。
もし、この世で栄華を極め、贅沢し放題で暮らしたとしても、天国の保証がなかったらなんと空しいことでしょうか。父の家に入ることができなかったら、すべては空しいのです。
人は、心に何かと不安を覚えながら生きていきます。日常生活のなかの不安もありますが、「死」に対する不安は大きいのではないかと思います。今生きていても、やがてこの世の命は終わります。
それを思う時に不安や恐怖を覚えない人はないといえるでしょう。
人の力では永遠の命は造り出すことはできません。買うこともできません。
主イエスだけが、私達のために永遠の御国を備えて下さるのです。
主イエスがこれらの事をお話になったのは、十字架に架かる直前でした。この後すぐにゲッセマネで捕らえられ、裁判にかけられてゴルゴタへ向かう事になります。
主イエスは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:4)と言われました。
しかし、弟子のトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちにはわかりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」(ヨハネ14:5)とお聞きしました。
主イエスがこの世にお生まれ下さったのは、罪のために道に迷い、滅びに向かう人々を救うためでした。
 人の救いの為には、代価が必要です。それは、罪のない神の御子が十字架に架かり、血を流し、命を捨てることで支払われました。
他の方法では救いはあり得ませんでした。
弟子たちは、3年もの間主イエスと寝食を共にし、そのそばで直接教えを聞き続けたのですが、主の御言葉と主の十字架の贖いを理解できませんでした。十字架にかかられることを話しても分かりませんでした。
今、その時がきたのです。十字架の時です。全世界の救いの時です。
しかし、トマスは、どうしてその道を知ることができるでしょうかと言いました。どうして救いの道を知ることが出来るでしょうかという事です。
そこで、主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)とお教えになったのです。
主イエスは、道そのものであり、真理そのものであり、命そのもののお方だと宣言されたのです。
父の許に行くには、主イエスを通らなければ行くことはできません。
救いは、主イエスという道を通ることによっていただくことが出来ます。
人は、生まれながらに罪を持っています。心の罪です。生まれながらに自己中心ですが、それさえ気が付かないような状態です。
人は、何か悪い事があると、人のせいにするようなところがあります。
何かというと、人を裁き、罪に定めてしまいます。
他の人の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目にある丸太には気が付きません。これは、人の小さな罪には気が付き、指摘するのに、自分の持っている罪には気が付かないということです。主イエスは、まず自分の目から丸太を取り除いて、良く見えるようになったら、「兄弟」の目からおが屑を取り除くことができると教えてくださいました。
人は、どのように教えられていても、弱く、教えられたことについて従えないような心を持っています。自分中心の心です。
そのような者なのに、主は惜しみない愛を注いで下さり、救いを与えてくださいました。
十字架によって罪を赦し、永遠の命を与えて下さったのです。
「心を騒がせるな」と語りかけて励まして下さり、御自分を道としてわたしたちを歩ませて下さいます。
主イエスという道は時には試練があるかもしれません。それは、主イエスが与える信仰の試練です。苦しいと思っても主が守って下さり、やがて私たちを鍛えて下さる為のものであったことが分かります。主イエスの聖さに預からせるための試練なのです。
主イエスは真理の道です。ある時、主イエスはユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31、32)とお教えになりました。
主イエスを信じる者は、主イエスの言葉を信じ、受け入れ、従う事となる。主イエスの言葉にとどまるなら、罪から解放されて自由になると教えられたのです。私たちも、罪に縛られていた者であったのに、今は解放されて主イエスを賛美する者になりました。
主イエスの道は、命の道です。「これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:50、51)。
主イエスは命のパンであり、この方を信じ、十字架の贖いを受け入れる者は、永遠に生きると約束されました。
命に至る道であり、真理であるお方を心にお迎えし、その御言葉にしっかりと従う信仰を持ちたいと願います。
私達のために住まいを準備して、迎えに来られる主イエスを日々待ち望み、自分の居るべき所が約束されている事に、改めて感謝し、安らぎをもちたいと思います。



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