阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2019年12月29日
喜び・祈り・感謝
テサロニケ人への手紙T5章16-18節

 2019年が終わろうとしています。今年もさまざまなことがありました。今年は、天皇の代替わりがあって、元号が平成から令和になりました。大きな台風や天災があって、いまだに復興を待つ方々も大勢おられます。個人の生活にもいろいろな喜びや悲しみ、変化があったと思います。その中にあって、今日まで守られてきたことを感謝します。
私達は、イエス・キリストというお方を、個人的な救い主として信じ、心にお迎えしました。
この方は、神の独り子であられるのに、全世界の人々を愛し、救いのためにこの世に生まれて下さいました。「神が人となられた」、これがクリスマスです。
人は、罪の中に生まれ、罪の中に生きて、やがて罪の中に滅びなければなりませんでした。心の中の罪の為です。
ある時、ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちが洗わない手で食事をするのを咎めたことがありました。ファリサイ人たちは、念入りに手を洗わなければ食事をしません。これは衛生的なことではなく、自分たちの宗教的な清めの決まりだったのです。
いくら手を洗っても、心が清くなることはありません。ですから、主イエスは、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(マルコ7:18,19)
「人から出て来るものこそが、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(マルコ7:20−23)
とお教えになりました。人の持つ罪の事です。
このように人の心には罪があって、いくら外側を洗っても、心は清くなることはありません。
神が人に問われるのは、心の中の罪です。人の心の中には拭い去ることのできない罪があって、その罪を解決する手立てはありませんでした。 
神は、人に救いの橋を掛けて下さいました。十字架という救いの橋です。救い主がこの世にお生まれ下さったのは、罪からの救いを与えるためであり、神の愛に引き戻すためでありました。
 誰でも主イエスを信じるなら罪が赦され、救われる時がやって来ました。それが今という時です。
主イエスが、神の小羊として十字架に架けられて、罪を贖って下さったからです。
救いの時代が到来したことを、天使は野にいる羊飼いに伝えました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:10)。すばらしい救いの時がやって来た。それは大きな喜びで、民全体に伝えられる救いの知らせ、福音でした。
自分でもどうすることもできない心の罪が赦されるのは、嬉しい事です。返しきれない借財を免除されるとしたら、どれほど嬉しいでしょうか。それとは比べ物にならないくらい罪からの解放はありがたいものです。
イエス・キリストという光に照らされ、真理の道をまっすぐに歩けるからです。
天の父は、御自分の独り子を与えても良いほどに、罪人である私たちを愛されました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。
主イエスを信じた者は心の罪が赦されて、新しく生まれた者とされます。新生です。
罪から解放されて新しく生かされる者がクリスチャンです。
クリスチャンは主イエスにあって心が強くされます。
今年の聖句は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:16−18)という御言葉でした。
これが、クリスチャンの証しです。世の人は、このように生きる人の姿勢と信仰に引かれるのです。
いつも喜んでいるクリスチャン、それは、自分が天の父にどれほど愛されているか知っているクリスチャンです。
愛されていないと感じる事ほど、寂しく悲しい事はありません。自分には価値がないと悲観してしまいます。
私達は、神がどれほど愛して下さっているかを知らなければなりません。イザヤ41章14節に、「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」という御言葉があります。
虫けらのようなヤコブと呼ばれたのですが、主は蔑んで言われたわけではありません。どうしようもなく。無力で不信仰なご自分の民を、「あなたを助ける」と、繰り返し語り掛けておられるのです。これが神の愛です。見返りを求めない、一方的に愛して下さる神の愛です。
私達も、愛される理由がないのに、かけがえのない者として愛して下さる神の愛を知る時、いつも喜ぶことができるのです。
また、神の愛の最大の現れである、主イエスの十字架を見上げる時、喜びに満たされます。
 絶えず祈るクリスチャンでありたいと思います。クリスチャンにとって、祈りは霊の呼吸に例えられます。祈ることなしに、霊的な命は保てません。
しかし、これは、何も一日中目を閉じて祈るという事ではありません。
祈りは真の神との交わりです。一日中、起きている時も、寝ている時も神とのお交わりが出来ます。
私達の体がいつも健やかであるとは限りません。弱る時も治療を要するような病気をすることもあります。しかし、体が弱っても、魂が弱ることはありません。神との霊的なお交わりによって命に満たされているからです。
心が弱り、さまざまな不安が襲って来る時こそ、クリスチャンは祈り、命と力に満たされます。また、自分の事だけではなく魂の救いのために、執り成すことが出来ます。
一日中、どこにいても祈れるとは、素晴らしい、幸いな事です。
クリスチャンは、すべての事に感謝します。クリスチャンは、神の最善を信じています。私たちの思いや計画は不完全です。しかし、神は完全です。
私達の生活の中で起こる、試練、苦しみはありがたいものではありません。しかし、その中にも神の愛は現わされます。苦しみの中に神の完全を知り、試練を乗り越えた時、さらに信仰の深みへと漕ぎ出すことが出来ます。
三浦綾子さんは病弱で、病気の生涯といっても良いほどでした。結婚前には結核性のカリエスで何年も寝たきり状態が続き、いやされて後の結婚後も、大腸がん、帯状疱疹、パーキンソン病など、病気が続きました。しかし、「わたしは神様にひいきされている。そのたびに平安を与えられている」と断言して、信仰による希望を発信し続けました。
全ての事に感謝する信仰者であったのです。
主イエスの十字架による救いは、永遠の命です。永遠の命の希望は、心を喜び、祈り、感謝に満たします。
主イエスは、私達がそのような信仰に生き、多くの人々に救いを証しすることを望んでおられるのです。
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Tテサロニケ5:18)とあるように、神が喜び、望んでおられるクリスチャンとして前進しましょう。
「霊の火を消してはいけません」(Tテサロニケ5:19)という御言葉も忘れてはいけないのです。聖霊に満たされ、祈り、喜び、感謝する、祝福された歩みを進めましょう。


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