阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年1月5日新年礼拝会
キリストを住まわせ
エフェソ3章14-21節

 新しい年を迎え、礼拝をささげられる恵みを心から感謝します。
今年は、「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(Tテモテ2章1節)と、御言葉が掲げられました。
「祈る教会、祈りの生活」を目標に掲げて行きましょう。
クリスチャンは祈る人です。信仰によって祈り、勝利していきます。
そして、御言葉によって力を受け前進していきます。
使徒パウロは、迫害する者から宣教する使徒へと変えられました。
復活の主イエスにお会いし、悔い改め、聖霊に満たされて造り変えられました。かつては罪深い者であったことを告白しています。そのような者が救われたのは、「このような罪人も救われる」という手本となるためであったと、証しをしています。
エフェソの信徒への手紙には、パウロの祈りが記されています。エフェソ1章には、「神を深く知ることができるように」、(1:18)、「受け継ぐ霊的な資産がどれほど豊かな栄光に輝いているか悟るように」(1:18)、「神の力がどれほど大きなものか悟るよう」(1:19)にと、エフェソの信徒を思い起こして祈っているとあります。
 この手紙を書いた時、パウロはローマの牢獄にいました。牢獄の中で、パウロはひざまずいて祈りました。当時、ユダヤ人は立って祈りました。ひざまずく事はありませんでした。
主イエスは、ゲッセマネの園でひざまずいて祈られました。ひざまずく姿勢は、これ以上ないほどの熱心な嘆願の姿勢と考える事ができます。
パウロは神を「御父」と呼び、信仰によるすべての家族の父であると言っています。
パウロの祈りは、あなたがたの「内なる人」が聖霊によって強められるようにという祈りでした。(3:16)
「内なる人」という言葉は、パウロの書簡で使われています。「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Uコリント4:16)とあって、大変励まされる御言葉です。
私たちの体は衰えていきますが、「内なる人」は日々新しくされるのです。聖霊の働きです。
そして、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(Uコリント3:18)という御言葉は、内なる人が強められるという事を説明しています。
「主と同じ姿」になること、これこそが内なる人が強められることです。大切な事として知らなければならないのは、聖霊の働きであるという事です。
内なる人が強められる事を、パウロは、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」(エフェソ3:17)と、表しました。
主イエスがあなたがたの心の内に、お住まい下さいますようにという事です。キリストが内住されるのです。
私たちは、家にお客様を迎える事があります。お客様は何日かしたらお帰りになります。一時的な滞在です。
「心の内にキリストを住まわせ」という言葉の意味は、一時的な滞在客ではなく、キリストは私達の心の中に、主人として住むためにお入りになるという事です。
心の客間にだけお入りになるのではなく、心の中の全てに入られるのです。
主イエスを信じる者は、主イエスを心の片隅に追いやるのではなく、全てを明け渡してお住まいいただかなければなりません。喜んで明け渡す時に、霊的な喜び、祝福にあずかることが出来ます。
人は、しばしば主イエスを締め出すことがあります。自分中心の罪です。
黙示録3章20節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしとともに食事をするであろう」という御言葉があります。
 主イエスが心の戸を叩いているのに、なかなかお迎えしようとしない、主イエスを救い主として受け入れない人の事を言っていると、考えるのですが、この御言葉は、「ラオディキアの教会」に宛てた言葉です。
ですから、すでに主イエスを信じているにも関わらずに、主イエスを心の中心にお迎えしない心の状態を表していると考えられるのです。
ラオディキア教会は、その信仰は中途半端で、「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」と言われてしまいました。
自分自身の信仰を省みさせてくださる御言葉です。
 さらに、「キリストの愛を知る」ための祈りがささげられています。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るようにと祈りがささげられています。
 主イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)とお教えになりました。
主イエスは、私達のために、十字架で命を捨てて下さいました。これ以上の愛はありません。人には計り知れない大きな深い愛です。
この、人の知識を超えた愛を知るようにと祈っているのです。
三浦綾子さんの著作に「塩狩峠」という小説があります。これは実際の出来事を作品としています。長野政雄さんという鉄道員が、モデルとなりました。小説では、永野信夫という名前になっています。
長野政雄さんは庶務主任でしたから、実際に汽車を走らせるという仕事はしていません。
明治42年2月28日、名寄発旭川行の列車の、最後尾の客車の連結が塩狩峠付近で外れて逆走してしまいました。たまたま乗り合わせていた長野さんが車輪の下に入り、犠牲となって客車を止めたのです。
長野さんはクリスチャンで、いつも懐に遺書を持っていました。
その遺書には、「苦楽生死均しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」とあったのです。まだ30歳でした。
生きるのも死ぬのも苦も楽もすべて感謝。すべてを神に捧げるという信仰の生き方でした。
ローマの信徒への手紙14章8節の、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という御言葉の表れでした。
キリストが心の内にお住まいになると、自分自身が生きるのではなく、キリストが私の内に生きておられることを知ります。そして、人知では知り得ないその愛を知るのです。
 主イエスの十字架の目的は、すべての人の罪が赦され、命を得る事です。そして、生かされた人が、「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Uコリント5:15)とあるように、主イエスの栄光のために生きる者になることです。
キリストを心に住まわせるとは、そのような信仰の生活であることをいつも心に留めましょう。
これは、人の願いや努力だけではなく、聖霊の力によることを忘れてはなりません。聖霊に満たされることを求め、主イエスにお住まいいただくことを心から願う時、私達はだれでも強くされ、主と同じ姿に変えられて行きます。
パウロは祈りの最後に頌栄をささげました。父なる神は、私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることがおできになる。教会により、キリスト・イエスにより、栄光が世々限りなくあるようにと、崇め、祈りました。
わたしたちも常に神の前にひざまずき、この方を崇め、心の中に主イエスに常にお住まいいただき、内なる人が強められ、多くの人の救いを執り成していくように、聖霊を求め、主イエスを求めて祈り続けましょう。


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