阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年1月12日
神に委ねる
ペトロ5章6-7節

 新しい年が始まりましたが、学校や職場も日常に戻ってきた頃ではないかと思います。
今年も主イエスが共に歩んでくださる事を感謝しながら進んでいきたいと願います。
今年は、祈る教会、祈る生活ということを目標とし、掲げながら、祈りによって、信仰によって勝利する年と信じます。
きょうは、ペトロの手紙が開かれています。
ペトロの手紙は紀元64年ごろ、使徒ペトロによって書かれ、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散している人々に宛てたものです。これらの地方は、パウロが宣教するために入ることが出来なかった所です。(参使徒16:6,7)
しかし、迫害のために離散していた人々によって、主イエスを信じる者の群れが出来ていました。ペトロは、彼らは、聖霊によって選ばれた者たちであると断言しています。
異教の地で、キリストを信じ、従う生活には様々な試練がありました。
その中にあっても、あなたがたは、神が用意されている天の資産を受け継ぐ者であり、キリストの尊い血潮によって贖われた者として、聖い生活をするようにと勧められています。
彼らの周囲は、主イエスを信じていない人々ばかりでした。主イエスを信じる信仰のために迫害されることが多くあったのです。
試練に遭う時、人は、「なぜ、このようなことが起こるのか」と疑問に思います。
そのたびに御言葉に聞くのです。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(Tペトロ4:12,12)。と、教えています。キリスト者として試練にあい、苦しみがあったとしても、驚いたり、いぶかしく思うのではなく、「キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(4:16)と教えているのです。
私達は、そのような信仰の姿勢を持ちたいし、持つべきであると考えられます。
聖書は、一貫して遜る(へりくだる)ことを教えています。「神の力強い御手の下で」自分を低くすることを教えています。私たちの力には限界があります。
体力、気力にも限界があります。しかし、神には限界はありません。力強い御手は永遠です。ですから、この方の許に自分を明け渡し、弱さも罪も一切お渡しすることこそ、謙遜な心という事ができるでしょう。
自分の力でなにもかもできると思う所に遜り(へりくだり)はないのです。
神の前に自分を低くし、一切をお任せすると、最善の時に、神は引き上げてくださいます。
わたしたちの神はどのようなお方でしょうか。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(Tペトロ5:7)とあって、思い煩いをすべて、神にお任せすることが教えられています。
委ねるということばは、「放り投げる」という意味です。重い荷を背負って歩くのは、苦しい事です。人は、罪という大変重い荷をもって歩みます。御言葉は、重荷も罪もすべて投げ捨てる事を教えています。
神が問題にされるのは、人の心の中です。人は人の上べを見ますが、神は心を見られます。
神に自分自身を委ねる時、自分の心を見ることが出来るようになります。自分の罪深さに気が付くようになります。自分中心の罪に気が付きます。人生の中で、事あるごとに、自分にとって少しでも有利になるようにと心をつかい、思い煩います。なかなか委ねる事はできません。後に、自分で良いと思って選択したことがそうでもなかったことに気が付くのです。
創世記に、アブラハムとロトの出来事が記されています。アブラハムは75歳で神の召しを受けて、神の導きの許に、行く先を知らずに出発しました。甥のロトも一緒でした。
神はアブラハムを祝福されたので、多くの家畜を飼う者となりました。ロトも同じく多くの家畜を飼う者となったのです。
そうするとアブラハムの僕と、ロトの僕が家畜の事で争うようになりました。富を得たための問題が起きました。しもべは、自分が任されている家畜のために、草や水を多く得たいと思うのです。それで、アブラハムはロトに、あまりにも家畜が増えて、もはや一緒にいることができない、「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右にいくなら、わたしは左に行こう。」と提案しました。(創世記13:9)
ロトが土地を見渡すと、低地一帯がまるで主の園のように潤っているのが見えました。美しい土地です。牧畜には最適です。ロトはそちらを選んで移って行きました。
主は、ロトが分かれた後、アブラハムに語りかけてくださいました。
「さあ目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(創世記13:14−17)と、すばらしい祝福を与えて下さいました。
甥のロトに放牧に最適な土地を選ばせたアブラハムは、山地で過ごしましたが、神は大いなる祝福と約束をされました。
ロトが選んだ土地は豊かな土地でしたが、住民は罪深い人々でした。
やがて、ソドムは裁かれ、滅ぼされる時、ロトはアブラハムの執り成しで、命からがら脱出することができたのです。
アブラハムの謙遜と、神に委ねる姿勢をみることができます。自分が良い場所を最初に取らずに、ロトに選ばせることができたのは、人に対しても神に対しても低い姿勢を取ることができた証となったのです。
神に全てを委ね、お任せする事は、神の前に遜る事です。高慢な心は委ねる事はできません。
神はどうして私たちを心に掛けて下さるのでしょうか。
そこに、神の愛があることに気づかされます。神は、愛する子を気にかけてくださるのです。
神は、私達のために、その愛する独り子を十字架に架けてくださいました。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)とあるのです。
尊い独り子さえ惜しまずに十字架に架けられた神は、御子と共にすべてのものを賜るとあるのです。
神は、十字架により、私達の罪を赦し、永遠の命を与え、この世にある限り良いもので満たされるお方です。共に歩まれて、霊肉ともに必要を満たして、慰め励まして下さいます。
神が共におられるのですから、何も心配する事はありません。常に最善をなさるからです。
サタンは獅子のように信仰者を狙い、キリストの栄光の光から引き離そうとします。
恐怖心を与え、後ずさりさせようと狙います。しかし、主イエスはすでに勝利を収められました。十字架は勝利です。
私達も主イエスによって圧倒的な勝利を収めます。
「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって、輝かしい勝利を収めています。」(ローマ8:37)
神に全てを委ねる信仰者は、神の前に謙遜な者です。
心を注ぎ出し、明け渡して聖霊に満たされ、良い働き、良い言葉を語り、生きておられる神ご自身を現していく者であるようにと祈りましょう。


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