阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年1月19日
神を知る
詩編46編11節

 人が生きていく中で、不安材料はたくさんあります。最近、中国の武漢で新型コロナウイルスによる肺炎が発生して、死者がでているという事が、毎日報道されています。日本でも、横浜で罹患された方が発見されましたが、もう回復して退院されているそうです。
インフルエンザや風邪も流行っています。これらは目に見えない驚異といったところでしょうか。
人は、さまざまな事で、心に恐れを抱きやすい性質があります。
主イエスによって罪赦され、救われた者は、その恐れを主に委ねながら、信仰によって進むことができるのです。
詩編46編は、神が共にいてくださるお方であることを詩っています。
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(2節)。
8節と12節には、「万軍の主はわたしたちと共にいます。」と、神が共におられる方であることを告白しています。
人の恐れの原因となることに、天変地異が挙げられています。日本でも、最近は温暖化のせいか、強力な大型台風が襲ってくるようになりました。
御言葉は、「わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも」(46:3,4)とあります。
人は、何度もこのような状況を体験していくのではないでしょうか。
今年は、阪神淡路大震災から25年という事で、多くの報道がされています。本当に恐ろしい大震災でした。家族を失い、それからの人生を必死で生きてこられた方々が数えきれないほどおられます。
その時、尼崎でも火災が起こって、49名の方が亡くなったという記録が残されています。
 以後も、何度も大きな地震や災害が起きています。
記憶に新しいところでは、平成23年の東日本大震災で、この時は津波の被害がひどく、原発の問題はなかなか解決しません。
平成28年の熊本大地震は、2度も震度7を体験しなければなりませんでした。「南海トラフ」という巨大地震の話もしばしば聞いています。
私達は、そのような、何がいつ起きるか分からない世界に生きているのです。
神は、「力を捨てよ、知れ、わたしは神。(46:11)」と語っておられます。
口語訳には「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあります。
力を捨てる、それは神の前に静まることを意味しています。
敵が押し寄せて来て、とても勝てそうにもない時、神は生きておられ勝利をあたえて下さるお方であることを表されます。
預言者イザヤの時代に、ヒゼキアという王がいました。南王国の王です。アッシリアのセンナケリブ王がユダに攻め寄せてきました。エルサレムは包囲されてしまったのです。
ヒゼキアは、城壁を築いたり、水を敵に自由にさせないような工事をしたり、武器を整えて準備をしました。そして、人々に向かい「強く雄々しくあれ。アッシリアの王とその軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。敵には人の力しかないが我々には我々の神、主がいて助けとなり、われわれのために戦って下さる」(U歴代32:7,8)と言って激励しました。
アッシリアは、ユダの人々に向かって、「ヒゼキアの神は諸国の神々と同じようにお前たちを助ける事はできない、ヒゼキアを信じてはならない」と、人々の心に恐れを与えて惑わせようと工作しました。
この危機を迎えた時、イザヤとヒゼキアは祈りました。神に向かって助けを祈ったのです。
神による奇跡が起こり、アッシリアの陣営は全滅しました。戦うことなく全滅したのです。そして、アッシリアの王センナケリブは、国に帰ってから、反乱にあって死ぬことになったのです。
エルサレムと住民は戦うことなく守られました。
イザヤは、「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)と、神の言葉を語りました。
私達は静まって神を知らなければなりません。私たちは真の神を知っているのでしょうか
神は霊ですから目で見る事はできません。しかし、いつも見えざる御手で導かれるお方です。私たちには明日のことは分かりません。しかし、神は知っておられるのです。
ですから、「自分の分別に頼るな」と、教えておられます。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。(箴言3:5,6)とあるのです。
使徒パウロの第二回目の伝道旅行の時、福音は初めてヨーロッパに伝わりました。パウロは、小アジアの町々に入って行きたいと思いましたが、行くことが出来ませんでした。聖霊がそのように導かれたからです。
しかし、パウロがどうしてもそこに行きたいと思うなら、行くことはできたでしょう。しかし、神のご計画がありました。福音を世界に伝えるという計画です。パウロは、自分の計画や、思いを貫くことはありませんでした。トロアスという町に入った時、パウロはマケドニア人の幻を見ました。「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻です。パウロは、神がマケドニア伝道に導かれている事を確信し、直ちに出発しました。
聖霊によって進む時は進み、留まる時は留まるのです。自分の力や分別で伝道はできないのです。
この時、パウロはマケドニアに渡りました。結果、フィリピでもアテネでもコリントでも福音が語られ、救われる者が起こされ、信じる者の群れ、エクレシアが建て上げられて行きました。
私達は、神は愛であることを知らなければなりません。天地を造られ、今も治めておられる方が、私達一人一人をを愛しておられるのです。
愛の証拠はイエス・キリストです。神の独り子を十字架に架けて、捨ててもかまわないほどに愛して下さるのです。
神が愛であるからこそ、「共にいて下さる」のです。「助けて下さる」のです。
母鳥は、その羽の下にヒナを集めます。母鳥はヒナを守ります。
ヒナは母の温かい羽の下で安心して憩います。
私達も神の御翼の下に憩う事ができるのです。
主イエスは、頑なで悔い改める事のないエルサレムを嘆かれました。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(ルカ13:34)
ユダヤ人たちは、約束されたメシアが来られたのに、信じて受け入れようとはしませんでした。
神の愛の御手を振り払ってしまうことほど、残念な取り返しのつかない事はありません。
苦しい時、苦難の時に、共におられる愛の神を信じる事こそ勝利です。
周囲を敵に囲まれ、その信仰と神を嘲られるような時、「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦」(46:8、46:12)と信仰を告白する時、すでに勝利なのです。
アッシリアを退けた神が、私達と共におられることを知り、この方に栄光をお返しする事こそ、私たちの信仰であることを覚えましょう。
神の前に静まり、賛美と感謝をささげ、これからも共におられる神を崇めて進んでいきましょう。


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