阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年1月26日
救いの喜び
Tペトロ1章6-9節

 私達は、イエス・キリストを救い主として信じ、心にお迎えしました。
主イエスは、罪のない神の独り子としてこの世に来て下さり、罪人を救うために十字架に架かって死んでくださいました。そして、3日目に復活され、今も生きておられる方です。
 人は生まれながらに罪を持ち、真の神と断絶したまま滅びの道へと向かわなければなりませんでした。
神は、人に救いを与える方法として、イエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架という救いの橋を掛けて下さいました。
「救い」という言葉を使う時、一般的には助けが必要な時に、助けられたという意味になります。
経済的な必要が満たされたとか、人間関係に躓いていた時、それが解決したというような時に、「救われた」と言うのではないかと思います。
私達は、このような現実の生活の中の救いは、恵みによって日々体験しているのです。
ペトロは、捕らえられて処刑されそうになったことがありました。エルサレムでは迫害が拡大していき、ゼベダイの子ヤコブが殉教した時、ユダヤ人に支持されたので、ヘロデ王はペトロも捕らえて処刑しようとしました。
ペトロは牢に捕らわれ、厳重な監視を受けていました。逃げ出す事などできません。
しかし、神は御使いを遣わしてペトロを助け出されました。ペトロは見張りの兵士たちの間で鎖につながれて眠っていました。御使いはペトロを起こして、身支度をさせ、第一、第二の衛兵所を通過し、町につながる門のところまで連れて行きました。門がひとりでに開いたので、ペトロは皆が祈っているマルコの家まで行きました。
集まって祈っていた人々は、ペトロがやって来てもなかなか信じられませんでしたが、実際にペトロがそこにいるので非常の驚いたとあります。
ペトロは、そこから他の所に行ったのです。
神によってペトロは助け出されました。絶体絶命と考えられる状況の中から救い出して下さいました。救いです。
私達も、現実の生活の中で、行き暮れて困惑するような出来事に遭遇することがあります。悲しい出来事も起こります。試練の中で呻くこともあるでしょう。
しかし、常に神の全能の御手が私たちをつかみ、救い出してくださる事を信じ抜きたいのです。
試練は私達の信仰が真実であり、「本物」であると証明されるためのものです。信仰は、朽ち果てるものではありません。
信仰は、試練のたびごとに輝きを増す金よりも尊いものであり、やがてキリストの前で、称賛と光栄と誉をもたらすものとなります。
そして、聖書は、根本的な「救い」を教えています。現実の生活の中で、さまざまな救いを体験したとしても、それが信仰に結び付かない事もあります。この根本的な救いこそ、本当に必要なものです。
人にとってなくてならない大切なのものは、主イエスによる魂の救いです。
クリスチャンが「私は救われました」と、証するのは、魂の救いについての証です。
人は心の中に罪をもって生を受けます。原罪です。罪の性質をもったまま生まれてきます。愛し合って結婚したはずの男女が、やがて生活を共にすることが出来なくなり、憎み合って別れるのはなぜでしょうか。
大切な家族が、仲良く生活できないのはなぜでしょうか。人間関係がうまくいかないのはなぜでしょうか。人はなぜ他人のことを悪く言うのでしょうか。否定したり、裁いてしまうのはなぜですか。
お互いに自分を他人よりも優れた者とするからです。自己中心の現れです。いじめや虐待も、悲しい事ですが、心の罪が解決しないままではおさまる事はないでしょう。
エリコの徴税人のかしらザアカイは、町の人々から相手にされず、金持ちであっても、裁判の時、証人として立つ事は許されませんでした。徴税人は罪人とされていたので、ユダヤの交わりに入れず、シナゴクに献金しようとしても受け入れてもらえませんでした。
ザアカイは裕福でしたが、孤独でした。
ある日、主イエスがエリコに来られることを聞き、イエスを見たいと思いましたが、背が低くて群衆にさえぎられてみることが出来ません。それで、先回りしていちじく桑の木に登ってイエスを見ようとしました。
機転が利く人の様でした。
イエスは、ザアカイのいる木に近づかれ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と言われたのです。
主イエスは、だれも相手にしないザアカイを知っておられ、家に泊まって下さると言われたのです。ザアカイは大喜びでイエスを迎えました。主イエスのお言葉に従い、急いで木から降りて来ました。
ザアカイは主イエスを受け入れました。その証として、財産の半分を貧しい人たちのために施し、もし不正で得たものがあれば、4倍にして返すことを告白しました。
何が一番大切かを知ったからこその告白でした。
ザアカイは魂の救いを受けたのです。財産に執着することはもうありませんでした。
「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や、銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Tペトロ1:18)
やがて滅びなければならない空しい生活から救い出して下さったのは、主イエス・キリストの十字架の贖いによるのです。
主イエスの十字架による救いで得られるものは、この世の中にある、やがて朽ちていく空しいものではありません。
「永遠の命」を持つことができるのです。この命はだれも奪う事はできず、また、売買できるものではありません。
牢獄に繋がれて処刑を待つペトロは奇跡によって助け出され、使徒として福音のために用いられました。
やがて、ペトロは皇帝ネロの迫害の時に殉教します。
人が天に移されることを召されると言います。これは神がお呼びになったという意味です。
人はだれでも召されるのですが、主イエスを信じて救われた者は、永遠の命を持ち、この世の仮住まいから本来住むべき所に移されるのです。
「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(黙示21:3、4)とあります。
ペトロの手紙の宛先の人々は、迫害や試練の中にありましたが、肉の目では見ることが出来ない主イエスを信じて、言葉では言い尽くすことのできないすばらしい喜びに満ち溢れていました。これがクリスチャンの証です。
永遠の救いを頂いている者は、どのような中にあっても、揺らぐことのない喜び、平安、感謝、祈りに満たされて生きる事ができます。
キリストにより、永遠の救いを頂いた者は、日々の生活の中でさまざまな救いと助けに満たされながら、賛美しつつ歩みます。
それは、「信仰の実りとして魂の救いを受けているから」とペトロは書き記しました。
私達は、言葉に言い表せないほどの喜びと感謝、救いの感激に満たされているのでしょうか。
この思いが溢れて、魂の救いのために祈り、福音の原動力となることを心に留めましょう。私たちが喜びに満ち溢れる事が伝道なのです。
まだまだ救いを知らない方々が大勢います。祈りましょう。そして、救って下さる主イエスを信じましょう。
私たちを愛して命さえ惜しまない方が、多くの人々に救いを備えられている事を信じて祈り続けましょう。


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