阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年2月2日
キリストの体
エフェソ1章17−23節

 2月第一週の礼拝をささげられることを心から感謝します。巷では新型コロナウイルスによる肺炎が拡大して大きな騒ぎになっています。
ドラッグストアなどではマスクが品切れになっています。10年ほど前の新型インフルエンザが流行った時も同じような状態でした。
今だけではなく、これからもさまざまな感染症が流行ると思いますが、静かに御言葉を思いめぐらすと、大きな平安に満たされます。
詩編91編には、「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ 主に申し上げよ 『わたしの避けどころ、砦 わたしの神、拠り頼む方』と。」(詩編91:1、2)とあります。全能の神に依り頼む者は神の絶対的な守りがあります。
「暗黒の中を行く疫病も真昼に襲う病魔も あなたの傍らに一千の人 あなたの右に一万の人が倒れるときすら あなたを襲うことはない。
あなたは主を避けどころとし いと高き神を宿るところとした。あなたには災難もふりかかることがなく 天幕には疫病も触れることがない。」(詩編91:6−10)と、力強い御言葉が与えられています。
全能の神を避けどころとするなら、完全な救いが与えられることを心に留めたいと思います。
 さて、私達はそのように神を信じる者とされ、教会に属する者とされています。
教会という言葉を聞くと、建物を連想しがちですが、教会とは主イエスを信じている者の群れを指す言葉です。エクレシアという言葉が使われます。神がお呼びになった者たちと言う意味です。ちなみにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団というのも、神に召された者の集まりという意味で、まさに神召教会なのです。
教会は、弟子たちが祈り待ち望んで聖霊が注がれた日に誕生しました。(使徒2:1以下)待ち望んで祈っていた人々は聖霊に満たされ、力に満たされ、異言で神を賛美しました。驚いた人々は、彼らは酒に酔っているとまで言ったのですが、ペトロを先頭に弟子たちは立ち上がって、キリストの十字架の死と復活を大声で証しました。
あなたがたが十字架に架けて殺したイエスこそメシアであると語った時、人々は心を打たれ救いを求めました。
「悔い改めなさい。キリストによって罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます」という使徒たちの言葉に促された人々は、信じて洗礼(バプテスマ)を受けました。その日に3000人ほどの人々が救われエクレシア(教会)を形成したのです。教会は聖霊によって誕生しました。今もこれからも聖霊の臨在するところなのです。
聖霊は、「知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように、心の目を開く」霊です。
人は、主イエスが十字架で死なれ、三日目に甦られたことを信じる時に救いにあずかるのですが、どうしてそのように信じることが出来るのでしょうか。人間の知恵や知識ではとうてい受け入れる事はできないでしょう。
聖霊が心の目を開いて下さり、神の知恵により、信仰によって、また恵みによって信じることが出来るのです。
神の教会には、神の下さる希望が満ち溢れます。それは、永遠の命の希望であり、現実の生活の中の希望です。
人は心の満たしを求めます。希望という言葉に置き換えても理解できることです。希望があれば満たされるという事です。
神が信じる者に備えてくださるものが、どれほど栄光に輝くものかを聖霊は悟らせて下さいます。
人は、主イエスの十字架による救いがどれほどすばらしいものであるかを知らなくてはなりません。永遠の命がどれほど輝くものであるかを知らなければなりません。
この世の無くなってしまうものや、滅んでしまうものと引き換えてはなりません。
聖霊は、天国の資産の輝きを悟らせて下さるのです。天国の希望に満たしてくださいます。
聖霊は神の絶大な力を悟らせて下さいます。神は、主イエスを信じる者に対して絶大な働きをしてくださるとあります。無限の働きをされるという意味なのです。
神の無限の力を悟る者でありたいと思います。
また、キリストのこれ以上ない権威をも悟る者でありたいと思います。神はキリストを神の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりではなく後の世にもあらゆる名の上に置かれたとあるのです。キリストの足の許にすべてのものを従わせて、すべてのものかしらとして教会にお与えになったのです。
これ以上ない権威をお持ちの方が、教会の頭なのです。
「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしているかたの満ちておられる場です」(エフェソ1:23)
主イエスと私たちの関係は、さまざまな形であらわされています。
主イエスはまことのぶどうの木、わたしたちはその枝という例えは有名です。まことのぶどうの木に枝がつながるという事は、枝は木の命で生かされている事がわかります。
同じようにわたしたちは、教会のかしらである主イエスにつながる体の肢体です。主イエスの命で結ばれているのです。
エクレシア、神に召された者たちは、キリストの体である教会を建て上げていくために召された事を覚えましょう。
頭である主イエスは地上でどのようなお方だったでしょうか。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(マタイ20:26−27)
と、お教えになったのです。
ヤコブとヨハネの母が、主イエスに自分の息子たちの地位を約束して欲しいと願った時、他の弟子たちが騒ぎ出しひと悶着ありました。非常に人間的な出来事でした。その時に教えて下さった御言葉です。
これ以上ないほどの権威をお持ちの方は、これ以上ないほど謙遜と愛のお方でした。
キリストの体を建て上げるために召された者はどのようにしていくべきなのでしょうか。
聖霊を求め続けていく事。御心を悟る事。永遠の命を天国の希望に満たされる事を教えられています。
そして、肢体の数は多くても体は一つなのです。「足がわたしは手ではないから、体の一部ではない。と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、わたしは目ではないから、体の一部ではないと言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」(コリント12:15−17)「多くの部分があっても。一つの体なのです」(12:20)お互いを認め合い尊び合うところに調和が生まれ、体が生かされるのです。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Tコリント12:27)
頭である主イエスの謙遜と愛を学び、お互いに受け入れ合い、敬う所に神の教会は建て上げられて行きます。
エクレシアの目的は、主イエスの栄光をあらわし、神の国を宣教することにあります。
聖霊はわたしたちを満たして下さり、恵みに満ち溢れ、喜びに満たされます。キリストの教会の中で愛による一致と調和が認められる時、人々は救いを求めるでしょう。
教会が建て上げられて行くことは、私たち一人一人が霊的に成長する事によります。日々聖霊に満たされ、キリストの肢体であることを喜び、用いられるように祈りましょう。
「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」
(エフェソ4:16)


 ページのトップへ
  
2020年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ