阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年2月16日
信仰の祈り
マルコ11章20節〜25節

 クリスチャンは、真の神と真実の祈りが出来る者です。祈りのないクリスチャンはいません。
主イエスも良く祈るお方であり、祈りを教えて下さる方です。
主イエスは全ての人の罪を贖うために十字架に架かって下さいました。
主イエスは、棕櫚の聖日と呼ばれるようになった日曜日に、エルサレムにお入りになりました。十字架に架けられるためです。人々は「ホサナ、ホサナ」と叫んで、歓迎しました。
主イエスはその日、エルサレムで神殿の中を見て回られ、夕方になるとべタニアに戻られました。
翌日、またべタニアからエルサレムへ向かう時、いちじくの木を認めました。そこで、実がなっていないかと近くに行かれたのですが、しげった葉のほかには何も見つけられませんでした。
そこで、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がいないように」(マルコ11:14)と言われたのです。
その日、主はエルサレムの神殿に入られて、宮清めをなさいました。神殿の境内はあたかも市場の様になっていました。神殿に納められるのは、ユダヤの通貨だけでしたから、ローマの通貨を持っている人は両替が必要でした。犠牲の動物も遠くから連れてくるわけにはいかないので、神殿で買わなければなりませんでした。売り手も買い手も少しでも有利な取引になるよう大変に騒がしかったのです。
主イエスは大胆な宮清めをなさいました。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と、イザヤ書を引用されたのです。祈りの家が商売の家になっていると指摘されました。
祭司長たちや律法学者たちは猛烈に反発してイエスを殺そうと計ったのですが、民衆を恐れてそのままにしました。
夕方、主イエスはエルサレムを出て、べタニアへと向かわれました。
その翌朝、エルサレムへ向かう途中、昨日のいちじくの木が枯れているのを発見しました。
きのうは葉を茂らせていたのに、今日は根元から枯れていたのです。
ペトロは、「ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」(マルコ11:21)と、申し上げたのです。
主イエスは、「神を信じなさい」(マルコ11:22)とお答えになりました。
「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ちあがって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる」(マルコ11:23)と続けられました。
ここで、枯れたいちじくと、祈りについての教えについてのつながり方が少しわかりにくいと思うのではないでしょうか。
祈れば木を枯らすことも、山を海に移すことも、何でもできるというように読んでしまいそうです。
主イエスは、神には不可能はない、神にはどのようなことも可能だということを教えておられるということを知らなくてはなりません。
人は本当に罪深い者です。エルサレム神殿は大切な信仰の場であり、臨在の場でした。礼拝と祈りの場であり、罪の赦しを求めるところでした。
多くの人が外国からも神を礼拝しにやってきたのです。ところが、実際には商売の場になっていて、主イエスは「強盗の巣」とまで言われたのです。神殿は、神を求めるより、利益を求める場となっていました。
それは、人の罪が神殿をそのような姿にしていたと考えられます。そのような神殿は、罪にまみれた人の心を表していました。
罪にまみれた人は救われるのでしょうか。真の神を畏れず、自分の欲に従って生きていく人の姿を思う時に、救いはないのかと思うようなことがあります。
しかし、御言葉は常に希望を与えています。山のように動くはずのないものが動く、神は、不可能を可能にして下さる、信じなさいと教えているのです。
罪にまみれた人が救われる事は、山が海に移るよりも難しいのではないでしょうか。事あるごとに争い、裁き合うような人間の姿は悲しいものです。しかし、神は、救われる可能性のない者を救って下さいます。主イエスは、「神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)と言われているのです。
少しも疑わず、祈りの通りになることを信じる者は幸いです。神の御業を確信するからです。
「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)祈り求めるものは、すでにあなたの手の中にあると言われています。私たちは、それを信じます。信仰です。
そして、主イエスは、赦すことを示されました。大切な教えです。
主イエスは、人がどれほど赦せない心をもっているかを知っておられます。
「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」(マルコ11:25)
祈りは神にささげます。祈りを妨げるものがあるとするなら、それを無くしてからでないと祈ることはできません。
主イエスは、「和解」してから神の前に出るようにと教えています。
「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5:23,24)とあります。
供え物を献げるとは、私たちが神に礼拝を献げることと考えられます。なぜなら、礼拝は自分自身を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げることだからです。
口語訳聖書では、「うらみをいだいていることを、そこで思い出したなら」とあります。自分が恨みを抱いているのではなく、恨みを抱かれているのを思い出したなら、まず和解してから神の前に出なさいと教えているのです。
信仰によって祈るためには、まず自分自身が整えられる必要があります。悔い改めてから祈る事です。人を赦さないままでは、本当の祈りはできません。
 主イエスによって罪赦された者は、新しく生まれた者として、主イエスに似た者に変えられて行きます。主の品性を持つようになります。
コロサイの手紙3章12節、13節では、「あなたがたは、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(3:12−14)と、教えています。
 主イエスは、宮清めをなさいました。私たちは、神の神殿であるとあります。
 「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Tコリント6:19)
聖い御霊がお住まい下さる神の宮とされたとは、なんと驚くべきことではないでしょうか。これこそが、山が海に移った以上の奇跡と言えます。
聖霊が喜んでお住まい下さる宮であるよう、主イエスの十字架の前で悔い改め、神との和解、人との和解を求め続け、常に執り成し、魂の救いを祈る信仰に満たされて行く事こそ、主イエスの心と言えます。
神は信仰をもって祈る祈りを喜んでくださいます。祈りは神との素晴らしい交わりの時です。祈りによって生きておられる父を体験し、喜びと確信に満たされ、私たちの日々が、新しい恵みと祝福の日々であることを感謝し、更に祈り、更に祈る喜びに満たされて参りましょう。


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