阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年2月23日
聖霊が宿る神の神殿 
Tコリント6章19−20節

  コリントの教会には、さまざまな問題がありました。主イエスによって一つであるはずの教会が、分裂したり、礼拝は一致がなく、愛餐もばらばらでした。教会員同士の裁判沙汰や、不品行の問題も起きていました。
 キリストを信じても、しっかりと御言葉を聞き、信仰によって御言葉に従う事がなければ、信仰をもっていると言いながら、神の御心とは遠いあり方になってしまいます。
 御言葉は、罪について指摘しています。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(Tコリント6:9)と警告しています。
 キリストを信じる者は神の国の国民になったはずなのに、これはどういうことなのでしょうか。
 幸いなことに、キリストにある救いが提示されています。「あなたがたの中にはそのような人もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(Tコリント6:11)
罪深い者がキリストにより、聖い者とされ、正しい者と認められたのです。これが十字架の救いです。
どうしようもない罪人が、主イエスの十字架の血潮によって聖められ、救われました。
ですから、コリントの教会に宛てた挨拶には、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」(Tコリント1:2)とあります。
御言葉は、不品行を避けるように特に教えています。不品行は自分の体に対する罪だからだと教えています。
ここでパウロは、主イエスを信じる一人一人の体は、聖霊が宿る神殿であると教えました。
ユダヤの人々にとって、神殿は信仰のよりどころでした。最初の神殿は、BC958年、ソロモンによって建てられた壮麗な神殿でした。T列王記6章、7章にはその素晴らしさが記されています。神殿の内壁は、レバノンの香柏と呼ばれた杉をふんだんに使い、彫刻で飾り、至聖所と呼ばれる内陣と祭壇、そして床も全て純金でおおわれていました。「彼(ソロモン)は神殿全体をその隅々まで金で覆い、内陣にある祭壇もすべて金で覆った」(T列王6:21、22)とあります。
ところが、この壮麗な神殿は、BC586年バビロンにより、南王国ユダが滅亡した時に破壊されてしまいました。人々はバビロンに連行されてしまいました。
2番目の神殿は、バビロン捕囚が終わり、ペルシャ王によってエルサレム帰還と神殿再建が許可されて、BC515年、建て上げられました。
捕囚から帰還した人々は貧しく、財力はありませんでしたが、神殿を建て上げるために、力を惜しみませんでした。しかし、この神殿は最初の神殿とは比べ物にならないくらいの小さな規模のものになりました。
さらに、この二番目の神殿を拡張する形でBC20年ころにヘロデ大王が建て直しました。
主イエスの時代の神殿は、ヘロデが拡張した神殿でしたが、やがて打ち壊されることを予言されていました。(参マルコ13:1−2)
この神殿は、AD70年にローマによって破壊されてしまったのです。
現在、「嘆きの壁」と呼ばれている場所は、このヘロデの神殿の西の外壁の一部と言われています。多くのユダヤ人が集まり祈りの場となっています。
今は、新約の恵みの時代です。神殿で犠牲をささげて罪を赦していただく必要はありません。主イエスが一度ご自分を神の小羊として十字架で犠牲となって下さったからです。
主イエスを信じる時、誰でも十字架によりすべての罪が赦され、聖い神の御霊がお住まい下さるのです。聖霊が内住されるのです。
ソロモンの壮麗な神殿も、第二の神殿も、ヘロデが拡張した第三の神殿も今はありません。
新約の恵みの時代に主イエスを信じた者は、聖霊のお住まい下さる神の神殿とされている事を、驚くべき恵みとして心に留めなくてはなりません。
主イエスを信じて、聖霊が住まわれている事を確信する人は、日々新しく変えられて行きます。主イエスの品性にあずかる者になります。
主イエスを心から慕い、主イエスを求めて生活します。
この世の物は、すべて移り変わって行きます。しかし、主イエスは決して変わる事のないお方です。「イエスキリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)
御言葉は、「聖なる生活」を求める事を教えています。
「すべての人との平和を、また聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブライ12:14)
主イエスは平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれると教えておられます。
平和は待っていても来るものではなく、実現するために忍耐や努力が必要です。平和はつくりだすものですが、主はそれを実現するのは神の子だといわれました。聖なる生活とは、「聖別」すなわち、神のものとされた者として、信仰によって、御言葉に従って歩む生活です。
私達は、毎日世の中で生活をしています。主イエスを信じていない人々の中で生きているのです。
その中で、聖なる生活をしているだろうか、世に流されている事はないだろうかと、日々祈り、聖霊によって力を頂くことが大切です。
内住の御霊は、私たちの目を開き、主イエスを知るようにして下さり、御言葉を思い起こさせ、罪について理解できるようにされます。
聖霊は私達を助け、祈りに導いてくださいます。どう祈って良いのか分からない時、聖霊が言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます。聖霊は、神の御心に従って聖なる者たちのために執り成してくださるのです。
聖霊によって神を、「アッバ、父」とお呼びすることが出来ます。
聖霊は私達に信仰の確信を与えてくださいます。御言葉を知っていても、信じて従わなければ、単に知っているという事に留まります。
信仰は、生きておられる神を体験することです。聖霊は、信仰による勇気と知恵を与えてくださいます。おくびょうの霊ではなく力と愛と思慮分別の霊だからです。
神の神殿である体を持つものであることを、心にいつも留めることは大切な事です。
 神の栄光のために生きる事ほど素晴らしい事はありません。
「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(Tコリント10:31)
聖なる生活とは、この御言葉のように生活することに尽きると言えるでしょう。
私達の体が神の神殿であるなら、教会も神の神殿であると考えられます。聖霊が満ち満ちておられるのです。聖霊の臨在の中で祈り、自由にされ、常に新しい信仰の確信に導かれるのです。
神に属する者とされ、十字架の代価で罪赦され、永遠の命をいただいた者は、日々自分の体で神の栄光を現わす事を願い、聖霊によって祈り、神の御心の様に生きていく事が、地上における使命であることを覚えます。そのように生きる時、主イエスの臨在が豊かに現れ、人々を主に導きます、
私たち一人一人が神の神殿であること、一人一人が神の栄光を現わすために用いられることを願い、私たちの内にお住まい下さる聖霊を崇め、感謝して祈りましょう。


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