阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年3月22日
「思い悩むな」
ルカ12章22-32節

 私たちがこの世に生まれでて、今日まで生かされてきたことは、神の素晴らしい恵みです。
私達は、生まれる以前から、私たちを愛し、御自分のものとして聖別して下さったことを、知っているからです。
数えきれない恵みを頂きながら歩んでくることができました。これからも神の愛に包まれて歩み続けられることを感謝します。
今日のテキストを読んでみますと、22節に、「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあります。
ですから、これらの教えは、ルカ12章13節からの、愚かな金持ちのたとえ話に続いての教えであることがわかります。
群衆の中にいた人が、主イエスに向かって、「私の兄弟に遺産を分けるように言って下さい」とお願いしたのです。すると、主イエスは、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」(ルカ12:15)と、お教えになりました。
貪欲に注意せよとは、人はこの世の富や物に貪欲になりやすい心を持つものだという事です。新型コロナウイルスの影響で、トイレットペーパーや、ティッシュペーパが手に入らなくなるというデマが広まると、人は買いに走ります。確かに全くなければ困りますが、このような場合、たくさん蓄えないと心配という人も多いのではないかと思います。必要以上に求めていく事は貪欲と言えるでしょう。
神に愚かと言われてしまった金持ちの農夫は、もともと裕福な上に、豊作で、倉庫を建て直して作物を備蓄して、これから何年も安心して遊び暮らせると思いました。
何がいけなかったのでしょうか。彼は、「私の」畑が豊作、「私の」作物をしまう場所、「私の」倉庫を建て直そう、と、すべては私の物であり、命すら自分の物だと思っていました。しかし、命は自由になりませんでした。その夜の内に取り上げられたら、備えた物は一体どうなるのでしょうか。多くの作物も、命には全く役に立ちませんでした。
多くの人は、同じような考え方で生きていると思います。私の人生だから、自分の思うように生きて行くという事は、良く聞くのではないでしょうか。しかし、聖書はそうではなく、人は神の栄光のために生かされると教えます。
すべては神のものであり、私達に、神が委ねていてくださると教えてくださいました。時間も、体も、手にあるものはすべて、神が委ねられて、神の栄光をあらわすために用いるようにと教えておられます。
神の前に富む生き方とは、そのような生き方と考えられるのです。
主イエスはそのように教えられた後、22節以下で、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(ルカ12:22)と、続けられたのです。
体と命とは、私達の生活の中の全ての事と考える事ができます。
主イエスがお話をされた時代、本当に、今日、明日、食べる事、着る事に困窮していた人達が大勢いました。病気になっても、現在の様に優れた治療を受けられるわけではありません。
主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)とあります。
そのような人々に向かって、命と体を養われ、癒しと慰めをお語りになりました。
カラスはどのように生かされているか。種も蒔かず、刈り入れもしない。納屋も倉も持つこともないのに、神はカラスを養い、生かして下さっています。
野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。ソロモン王がどれほど装っても、野の花には勝てないといわれたのです。
今日は咲いて、明日には枯れて焼かれてしまう野の花も、素晴らしく装ってくださるのは神です。
カラスも野の花も自分ではなにもすることはできない存在であるのに、神はこれ以上ないほど良くして下さるのです。ましてや、「あなたがたはなおさらの事」と言われるのです。もっと、もっと、比べ物にならないほど大切な存在と言われるのです。
主イエスは、人々に向かって、「信仰の薄い者たちよ」(ルカ12:28)と語られました
信仰が薄いとは、主イエスとその御言葉を信じているのに、信仰が生きていない者たちと言えるでしょう。
私達の信仰とは、主イエスの御言葉を信じて生活することです。
もし、これほどまでに主イエスが「思い悩むな」と語っておられるのに、それでも心が乱れ、心配でいてもたっていられないなら、「信仰の薄い者」であり、「異邦人」、即ち真の神を信じていない人たちと同じ状態となってしまいます。そうであってはなりません。
主イエスが十字架に架かり、命を捨てられ、三日目に甦られたのは、私たちを主イエスと同じ命に生かすためです。
生きておられる主イエスと共に生きるためなのです。
現実の生活の中で思い悩む種はたくさんあります。仕事の事、家庭の事、病気の事、経済の事、人間関係の事、数え上げたらきりがないほどの心配事があります。
しかし、私達は異邦人ではありません。主イエス・キリストの十字架の血潮によって罪赦され、新しい命に生きている者です。神の子となったのです。
神の子は神の子として生きます。主イエスが、「思い悩むな」と言われたら、「アーメン」と応答して委ねます。約束を信じます。
天の父は、私達が必要とすること、あるいはものをご存知です。体の事、命の事、生活の全ての事を知っておられるのです。
私達は、何を求めるのでしょうか。「ただ、神の国を求めなさい」と言われます。
「神の国」とは、「神の御支配」です。神が支配してくださる事を求めていく事。これこそが私達の祈りです。
神が私たちを養い、守り、必要すべてを備えてくださる事を体験していくとき、生活そのものが証とされるのです。
神の国にいることを信じる時、私達は思い煩いや恐れから解放されます。現実の厳しさも神が手を取って乗り越えさせてくださる、この苦しさが神の栄光となるという事を知っているからです。
私達の心はどこにあるでしょうか。私たちがもっとも大切とするところに心はあります。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにして、キリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。」(ローマ14:17−19)とあります。
この御言葉に、神の国の特徴が記されています。義と平和と喜びに支配され、それは、聖霊によるのだという事です。
主イエスを心に受け入れた人は、聖霊が内住してくださいます。心に神の義と平和と喜びが沸き上がります。神の御支配の中に住む者は、神に喜ばれる、そして、人に信頼されるとあります。
お互いの霊的な成長に役立つことを考え、求めていくところこそ、神の国なのです。
新型コロナウイルスの影響で、さまざまな事が自粛されています。いったいいつ終息するのか、これからどうなるのかなど、気にかかります。生活にも影響がでています。しかし、思い悩むことはありません。
わたしたちの必要を知っておられる神は、見えざる御手をもって導き続けてくださいます。
私達はいかなる時も、神の国の民として、恵みと救いを賛美しながら歩み続けられることを覚えていきましょう。
主イエスが備えて下さった神の国を、声を上げて伝えて行きましょう。


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