阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年3月29日
「福音の希望」
コロサイ1章21-23節

 3月最後の聖日となりました。日々御言葉によって魂が養われ、今日も礼拝をささげるために導かれた事を感謝します。
今日は、コロサイの信徒への手紙の中から御言葉を分かち合いたいと思います。
コロサイ教会は、パウロの弟子、エパフラスによって福音が伝えられ、建て上げられて行った教会でした。
パウロは、コロサイの教会に、「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:14)と記して励ましました。
人は、誰でも罪を持って生まれます。21節以下に、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」とあります。
私たちも、かつては真の神を知りませんでした。また、何が罪かも分からず、自分が罪人であることさえ知らずにいたのです。
今でも、キリスト教は外国の宗教で、自分たちには関係がないと思っている人も多いのです。
しかし、そのままでは一体どうなるのでしょうか。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」(箴言14:12口語)という御言葉があります。
自分は正しい道を歩んでいると思っても、死に至る道を歩んでいるという意味です。絶対に自分に自信があると確信していても、その終わりに保証はありません。
コロサイの人々も、同じようにそのような生き方をしていました。ところが、エパフラスによって福音が伝えられた時、命に変えられていきました。神が、闇の中から救い出して、その愛する御子の支配下に移されたとあります。
人は、救い主の御言葉を聞く時、聖霊によって罪を自覚することが出来ます。
コロサイ書には、「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(1:21)とあります。
罪を明確に示している御言葉です。
「神から離れていた」、真の神を知らず、神との正しい関係を持つこともできなかったのです。神との断絶の関係にあったということです。
さらに、神に敵対して、悪い行いをしていた者だという指摘がされています。
この手紙を書き送ったパウロは、かつての自分自身の姿を思い出して記したのではないでしょうか。
パウロは、ファリサイ派の議員であり、高名なガマリエルから学んでいた人でした。自分で、律法の義については非の打ちどころのない者だったと言っているのです。熱心な教会の迫害者であって、周囲からは非常に立派な人物であったと思われていました。ところが、自分の持っていたそれらの誇りは、キリストに見いだされてからは損失とみなすようになりました。キリストを知ることのあまりの素晴らしさのため(参考フィリピ3:7)とあります。
人間的には立派であると思われていたのですが、真の神の御心とは真逆な生き方、即ち罪のただ中にあったことが分かったのです。
クリスチャンを迫害することが、神の御心とは正反対であったからです。それは、神に敵対する事でした。
パウロは、クリスチャンたちを逮捕しようとダマスコへ出かける途上で、復活のイエスに会って、初めて自分の罪の姿に気が付いたのです。初めて自分が神に敵対している者だと気づいて、悔い改めることが出来ました。
神は、そのような罪ある者を、御子キリストの十字架によって贖い、和解してくださいました。神との正しい関係を回復することが出来たのです。罪を全く赦し、新しい命に生かしてくださいました。
キリストにより、「ご自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのないない者にしてくださいました」(コロサイ1:22)とあります。
罪深く、死に至る道を歩んでいた者が、キリストの十字架によって、罪赦され、神の前に聖い者とされて、完全に罪から解放されたのです。
新しく造り変えられた者は、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(1:23)と教えています。
しっかりと信仰に立って、福音の希望から離れてはなりませんと教えているのです。
福音とは、イエス・キリストであり、この方が成し遂げて下さった救いをしっかりと握りしめて、離れてはいけないと教えました。
この時代には、教会の中に福音とは違う教えが入って来る危険がありました。
教会の中で、言葉巧みにキリストの十字架の救いを否定し、議論や人間の教えに誘導するようなことが起こっていました。
人が救われるのは、キリストによる以外にはありません。「神は、わたしたちの、一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けして取り除いてくださいました。」(コロサイ2:13、14)と、十字架の救いを強調しています。
主イエスを信じて、この福音によってのみ救われることを確信していなさいと、強く勧めています。
人が福音により、聖なる者とされると、十字架で死なれ、復活された主イエスを唯一の拠り所として歩むようになります。それはすばらしい希望です。
ヨハネによる福音書3章には、ニコデモが主イエスを訪ねたという事が記されています。それは、夜だったとあります。
ニコデモも、パウロと同じように、ファリサイ派に属し、議員でした。
ニコデモは、ファリサイ派の中でも指導的な立場の者でしたが、主イエスを「ラビ」と呼んで、「あなたは神の許から来られた方」であると語ったのです。
主イエスはニコデモに、「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)とお教えになりました。ニコデモは、その意味が分からなかったので、「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えました。
主イエスは、救いの希望は、新しく生まれるということのほかにはないと教えられたのです。
「水と霊によって」生まれなければ、神の国には入れないとあります。
神の命に生まれるという事なのですが、それは、主イエスを信じる時に起こることなのです。主イエスは、すべての者の罪の身代わりとして十字架に架かって死んでくださいました。このイエスを信じる者は、罪を犯したことのない者、新しく生まれた者としてくださるのです。
福音による希望であり、永遠の命です。
ニコデモがこの時に、どのような応答をしたのかは記されてはいません。しかし、後に主イエスが逮捕されそうになった時、ファリサイ派の人々の前で弁護しました。
また、十字架の直後、アリマタヤのヨセフが主イエスの埋葬のためにピラトのもとに行って、イエスの遺体を引き取った時に、ニコデモも高価な香料を携えて赴きました。
主イエスの埋葬は、共に歩んだ弟子達ではなく、隠れた弟子であったアリマタヤのヨセフと、かつては人々をはばかって、夜、主を訪問したニコデモによって行われたのです。新たに生まれるという希望はニコデモの心の中に生き続けて、彼の生き方を変えていったのでしょう。
私たちは、キリストの十字架の贖い、すなわち罪の赦しをいただいて、永遠の命に生かされているという、福音の希望をしっかりと握りしめて、日々歩み続けて行きたいと願うのです。
「この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、これに仕える者とされました」(コロサイ1:23)
私たちも福音によって救われ、この福音を伝えていくよう、感謝をもって祈り続けましょう。


 ページのトップへ
  
2020年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ