阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年4月5日
イエスの十字架
ルカ23章32節-43節

 キリスト教会では、教会歴を使用しますが、今年は、4月12日が復活祭、イースターとなっています。
毎年イースターの日は違います。それは、春分の日直後の満月の直後の日曜日が、イースターと定められているからです。4月8日が満月の様ですので、直後の日曜日は12日になります。
イースターは、言うまでもなく、十字架に架かって死なれた主イエスが3日目に復活されたことを記念し、祝う日です。
主イエスの死と復活は、使徒信条に、(主は)、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり」とあるように、私たちの信仰の根幹ともなるべき出来事です。
いつもでしたら、イースターエッグや、愛餐会で復活を祝い、また、午後は教会墓地で墓前祭をしますが、残念なことに今年は自粛ということになりました。一日も早く新型コロナウイルスが終息し、感染者が癒され、もうこれ以上増えないように祈って参りたいと思います。
さて、主イエスは十字架に架かられる週の最初の日に、エルサレムへお入りになりました。子ろばに乗って入城されたのですが、人々は上着を道に敷き、木の枝を振って歓迎しました。それで、受難週の日曜日は棕櫚の日曜日と呼ばれています。
受難週にあたり、わたしたちは、十字架であらわされた、これ以上ない神の愛を覚えて参りたいと思います。
主イエスは、ゲッセマネでの祈りの後、逮捕されて大祭司カイヤファの庭で裁きを受けられます。夜が明けると最高議会に引き出され、次はユダヤの総督であったポンテオ・ピラトの許に連れて行かれます。ピラトはユダヤ人の問題なので、ヘロデに送ります。ヘロデは人々と共に主イエスを嘲り、またピラトの許に送り返します。主イエスは次々と引き回されたのです。ピラトは主イエスに罪がないことが分かっていたので、何とか釈放したかったのですが、群衆が承知せず、十字架につけることを強く要求したので、主イエスを彼らに引き渡してしまいました。保身のためと考えられます。民衆が暴動を起こすと、自分の不始末になるからです。
そして、主イエスは、されこうべ(ゴルゴタ)と呼ばれる処刑場まで、重い十字架を担いで、登って行かれたのです。途中でシモンという人が無理やり十字架を運ばされて行きました。
この時、主イエスと共に、二人の犯罪人も十字架に架けられるため引かれていきました。十字架刑は最も惨い処刑方法です。十字架に人を釘で打ち付け、そのままにするのです。激痛と渇きで苦しみ抜きながら死かなければなりませんでした。
主イエスは十字架の侮辱と苦しみの最中、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」(ルカ23:34)と、祈られました。
祈られる主イエスの十字架の下では、ローマの兵士がイエスの衣が誰のものになるのか、くじを引いていました。
議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うが良い」(ルカ23:35)と嘲り、人々は、成り行きを見つめていました。
兵士たちも主イエスを嘲りました。
一つの事が起こりました。主イエスと共に十字架に架けられた犯罪人の一人が主イエスを罵りました。
すると、もう一人がたしなめたのです。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、さらに、主イエスに向かって、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:40−42)とお願いしたのです。わたしを思い出してくださいとは、少し控えめな申し出だと思います。自分が犯罪を犯してきた者であると分かっていたからです。「自分自身と我々を救ってみろ」(ルカ23:39)という高慢な言葉とは大変な差があります。
主イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と答えてくださいました。
「はっきりいっておく」とは、「アーメン、まことにあなたに告げます」という、大切な事を告げられるときのお言葉です。
それは、あなたは十字架でもうすぐ死ななければなりません。しかし、あなたは死んでもわたしと共に御国にいるでしょう」と約束して下さったのです。
この犯罪人は死の直前に悔い改めました。もしかしたらこの時しか主イエスを受け入れるチャンスがなかったのかもしれません。
彼は、御国に入るのに間に合いました。
一人一人に、救いの機会が与えられています。ですから、その時を逃がしてはいけないのです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ3:15)とあります。
詩編95編の御言葉ですが、神が救いを語っておられるのに、心を閉ざしていてはならない、御言葉を聞いた日に、救われなさいという勧めです。
主イエスの十字架は、神の愛のあらわれです。もちろん主イエスこそが神の愛そのものなのです。
恐ろしい十字架の前で、さまざまな人が主イエスの姿に打たれました。
午後3時頃に主イエスは、父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と大声で叫ばれて息を引き取られました。
その時、一部始終を目撃していたローマの百人隊長は、「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)といって、神を崇めました。異邦人であるローマの百人隊長は、主イエスの姿に打たれ、神を賛美したのです。
群衆も胸を打ちながら帰って行きました。この人々は、主を十字架に架けろと叫んだ人々です。ところが、胸を打ちながら帰ってい行ったのです。胸を打つとは、大変な悲しみを表すことです。主イエスの十字架の姿を見て、自分たちのしたことが過ちであったことを悲しみ、悔い改めの心を持つことができたのです。
人は、頑なな心を持ち、自分勝手です。旧約聖書を読むと、出エジプトをしたユダヤ人たちが、本当に身勝手であることに驚きます。奴隷の苦しみの中から、海の水を二つに分けて救いだされ、奇跡を体験しても、行き詰ると不信仰な事を平気で言いだします。
神がヨルダンの向こう、乳と蜜の流れる地、約束のカナンはあなたたちに既に与えているから、ヨルダン川を渡って行きなさいと告げても、彼らは恐れて渡ることが出来ませんでした。神の約束と愛を信じられなかったのです。
結局40年間の荒野の訓練を受ける事になりました。
しかし、それが終わる時、「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)とあります。
40年も放浪の旅を続けたら、着物は古くなり、足もひどい状態になるはずなのに、神の愛に包まれ、守られての40年間だったことが分かります。私たちの日々の歩みも、このように守りの中にあります。
私たちの日々の歩みについて、何か確かな保証があるでしょうか。私たちの命について何か保証があるでしょうか。実は何もありません。
すべてが不確実な世を生きているのです。
しかし、神は愛を注ぎ、あなたの罪を赦し、守り続けると約束してくださいました。独り子を十字架につけてもかまわないほど、あなたを愛しているからと、語っておられるのです。神の愛という確実な事実の中に生かされている事を感謝します。
神は罪と無関係な方を十字架につけて、私たちの罪を赦し、義としてくださいました。
「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Uコリント5:21)この御言葉こそ、十字架の愛を表す御言葉です。神の愛の内を歩み続けられることを感謝し、十字架の愛と救いをいつも心に強く覚えながら、十字架の愛を語り続けて行きましょう。


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