阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年4月12日
イースター礼拝
復活の朝
ルカ24章1節-12節

 イースター礼拝をおささげできる幸いを感謝致します。主イエスが私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれた事、三日目に復活された事を信じ、受け入れる事が、私たちの信仰の根幹です。
復活された主イエスを仰ぎつつ、礼拝をささげましょう。
さて、主イエスが十字架で死なれた時、その遺体はアリマタヤのヨセフと、ヨハネによる福音書によれば、ニコデモによって仮埋葬されました。アリマタヤのヨセフは、裕福な身分の高い議員であったとあります。ニコデモも議会の長老でした。アリマタヤのヨセフは、勇気をだしてピラトの許に行き、遺体の引き取りを申し出ました。
主イエスの遺体は、きれいな亜麻布に香料を添えられて包まれ、ヨセフが自分のために用意しておいた新しい墓に納められ、墓の入り口には大きな石が置かれました。安息日が始まってしまうので葬りを急いだのです。
主に従っていた婦人たちは、ヨセフの後について行って、主イエスがどこに葬られたのかを見届けて帰りました。安息日が終わったら墓に行き、本格的に埋葬しようと、香料や香油を用意しました。
週の初めの日の明け方、婦人たちは葬りの為の香料を携えて墓に向かいました。ところが、墓の入り口の石が転がされていて、中に入っても主の遺体はありませんでした。
婦人たちは途方に暮れてしまいました。その時に、輝く衣を着た二人の人が現れて、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか」。と告げました。
主イエスはかつて、三度にわたって弟子たちに十字架の死と復活を予告しておられました。同じことを三回弟子たちに伝えました。本当に大切な事なので、三度もお話しされたと考えることが出来ます。しかし、弟子たちの反応は鈍いものでした。主イエスの語られるこの十字架の死と復活の意味が分かりませんでした。ペトロは、主イエスをわきに寄せて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と戒め、主イエスに、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と、叱責されて
しまいました。
 主イエスの予告があったにもかかわらず、婦人たちも主の十字架の死と復活は理解していませんでした。
「生きておられる方を死者の中に捜す」とは、主イエスは復活されて生きておられるのだから墓におられるはずはない、墓に来ても主はおられないというメッセージです。
死について考えない人はいません。だれでも死に対する恐怖はあります。新型コロナウイルスの感染が広がり、毎日感染者が増え続けています。なぜ、これほどの騒ぎになっているのかでしょうか。感染力が強く、どんどん広がってしまい。高齢者や基礎疾患があると重篤化して死に至ってしまうからです。高齢者だけではなく、若年層にも重篤な症状が現れています。
病院では、新型コロナウイルスの感染者対応で、別の病気の人の手術が延期になり、治療が遅れてしまう事も起こっています。感染者で溢れかえり、医療器具も人員も足りなくなり、医療崩壊の恐れがあるのです。  この事で経済も大変な打撃を受けて、仕事を失い、生活を変えざるを得ない状況もおきています。
まだよくわからないウイルスでもあるらしく、ワクチンはなく直接の治療薬もないのです。
感染を防ぐには、人とのかかわりを持たない事が一番なのですが、まったくそれができるかというと、そのようなわけにもいきません。
人は、病気も経済の問題も、そのほかも、「死」につながる事であることを知って恐れているのです。
御使いは、「あの方はここにはおられません」と言いました。主は「復活されたことを宣言しました。
婦人たちは、主イエスのお言葉を思い出したのです。墓から戻り、11弟子たちに墓での出来事を知らせました。マグダラのマリアを始め、数名の婦人たちが語っても、弟子たちには「たわ事」のように思われ、信じることが出来ませんでした。熱にうなされている人の言葉のようにおもわれたのです。
ペトロは墓に走って行きました。墓の中をのぞくと亜麻布だけしかなかったので、首をかしげながら家に帰って行きました。
主イエスはエマオの途上で二人の弟子たちに現れ、また、夕刻には弟子たちの許に来てくださいました。
弟子たちは復活の主にお会いして、十字架の死と復活を信じることが出来たのです。
主イエスは、御自分がこの世に来られた使命を良く知っておられました。弟子たちは誰が一番偉いかなどと言い合う事がありました。主イエスは、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのとおなじように。」(マタイ20:26−28)と、お教えになりました。主イエスは「多くの人の身代金」として来られたと言われたのです。
罪のために神と断絶し、罪の中を歩んで滅びの道を行く全ての人のために、御自分を罪からの解放の身代金としてくださいました。
全ての人の罪を贖うために、十字架に架かられたのです。旧約の律法の規定によれば、罪の赦しを得るために、大祭司は神殿で犠牲の動物を繰り返しささげました。これは、キリストの贖いの時までの規定に過ぎないと、ヘブライ人への手紙にはあります。「供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです」(ヘブライ9:9)とあります。動物が犠牲としてささげられても完全な罪の赦しを得る事はできません。
主イエスが地上に来て下さり、贖いの供え物となって下さったことで、完全に罪の贖いが成し遂げられました。
私たち一人一人の罪を負って下さり、十字架で完全に開放して下さった恵みと愛を褒め称えましょう。
罪が赦された者は、主イエスの復活の命に生かされています。
人の地上の命は、いつしか終ります。自分でもそれがいつの事なのかはわかりません。しかし、主イエスを救い主として信じ、十字架で罪赦された者は、主イエスと共に永遠に生かされています。
主イエスの墓に行った婦人たちは、主イエスが死んでしまい、これですべてが終わったと思っていました。ですから葬りの香料を携えて行ったのです。死は終わりではない事を知らなくてはなりません。私たちは、今、復活の命に生かされています。だれでも、死には勝てないと思っています。しかし、主イエスは、罪にも死にも打ち勝たれたお方です。私たちも主イエスと共に勝利しました。
「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
イースターは、主の復活を記念し、祝う日であると同時に、私たちも主イエスの復活の命に生かされていることを確認する日です。
私たちも体の死を迎える時は来るでしょう。しかし、主イエスにより、罪と死から解放されて、墓の中に留まるのではありません。私たちは、復活の命を頂きました。コリントの信徒への手紙Tには、「自然の命の体」で生まれた者も、主イエス・キリストを信じる時に、「霊の体」を持つことができたと断言しています。霊の体とは、天に属する者の姿です。キリストと共にある者の姿です。主イエスの許に私たちの居るべき場所が整えられています。この世で生きても、あるいは死んだ後も、主イエス・キリストの許に居り、主と共に歩める事は、人にとって最大の祝福です。主イエス・キリストの十字架の死と復活により、人にとって最大の問題である、罪と死についての解決が与えられ、解放されている事を改めて思い、またクリスチャンには、毎日が復活祭であるという信仰によって歩みましょう。


 ページのトップへ
  
2020年の礼拝メッセージ
  
他の年の礼拝メッセージへ


トップページへ