阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年4月19日
「エマオの途上で」
ルカ24章13-35節

 新型コロナウイルス拡大防止のため、きょうからyoutubeでメッセージ聞き、礼拝をささげます。
youtubeの環境のない方は、すでにお渡ししてあるメッセージをご覧ください。
初代教会時代には、家の教会に集まりました。そこで祈り、パンを裂いて交わったのです。
きょうからしばらくみなさんの家を教会として、礼拝をささげましょう。
先週は、主イエスの復活をお祝いしました。復活祭だけお祝いするのではなく、私たちも主イエスを信じ、復活の命にあずかったのですから、毎日が復活祭であり、永遠の命を喜びたいと思います。
主イエスが復活された日、二人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって行きました。エマオはエルサレムから11キロメートルくらい離れた所にある村です。歩いたら2、3時間くらいで行ける距離です。
彼らの一人はクレオパという名前の弟子でした。二人は主イエスの十字架の出来事について話していました。それも、大きな声で論じ合っていました。すると、彼らの所に主イエスが近づいて来られて、一緒に歩き始められたのです。
彼らはこの人が主イエスであるとわかりませんでした。目が遮られていたからと理由が書かれています。
主は、「歩きながら、やり取りしている話は何のことですか」と聞かれました。
失望の中にいる二人は、暗い顔をして立ち止まり、「エルサレムでこの数日に起こった出来事を知らないのですか」と答えたのです。それは、もちろん主イエスの十字架の出来事です。
クレオパは、主イエスにこれらの出来事を説明し始めました。彼は力ある預言者でした。それなのに、祭司長や律法学者や議員たちは、死刑にするため、十字架に架けてしまったのです。クレオパたちは、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と語りました。
主イエスが先頭に立ち、民衆を立ち上がらせて、ローマ帝国の圧政からユダヤを解放してくれると思っていたのです。
クレオパたちは、ところが、婦人たちが日曜日の早朝に墓に行くと、イエスの遺体はありませんでした。天使があらわれて、「イエスは生きている」と語ったと言うのです。仲間たちが墓に駆けつけても、婦人たちの言うとおりにイエスは見当たりませんでした。と、経緯を語りました。
すると主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言われ、旧約聖書から始めて、聖書全体にわたって、御自分について書かれてあることを説明されたのです。
主イエスが、物分かりが悪く、心が鈍い者」と言われたのは、聖書がメシアについて書いてあることを信じなかったからです。
イザヤ書53章はあまりにも有名な箇所で、受難のキリストを僕の姿として語っています。
「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:5)とあります。主イエスの十字架の苦しみはわたしたちの罪を贖い、神との平和を回復するためでした。
神の御言葉を理解し、信じる事は大切です。御言葉なしに信仰は成り立たないからです。
ところで、クレオパたちは、共に歩んでいる人が、主イエスである事がわかりませんでした。目が遮られていたからとあります。
心の目が開かれていませんでした。彼らの心は、悲しみと絶望に閉ざされていました。先の見通しも立たない、今まで心の拠り所とし、熱心に願っていたイスラエルの解放ももはやない。暗い心の中、エマオへ向かって行ったのです。あまりに心が一杯で閉ざされていると、見えるものもみえず、大切な事も見落としてしまうのです。
やがて、エマオに近づきましたが、主イエスはなお先に行こうとされるので、「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理にお引止めしました。もっと、もっと御言葉を聞きたかったからです。
この家は、クレオパの家ではないかという説があります。彼らはエルサレムでの出来事に絶望して家に帰ったのかもしれません。
家に入り、共に食卓に着き、主イエスはパンを取られ、賛美した後パンを裂いて渡して下さいました。その時、二人の目が開き、主イエスであることが分かりました。
その時、主の御姿は見えなくなったのです。
彼らは急いでエルサレムへ引き返しました。11弟子たちと共に主イエスの復活を報告し合い、エマオの出来事を報告したのです。
エマオの出来事から私たちは大きな慰めと希望を頂きます。主イエスは、絶望する人、失望する人と共に歩んでくださるということに気づくのです。今、新型コロナウイルス拡大の為、多くの人が先の見通しが立たず、経済もひっ迫し、失望の中にいます。
また、誰もが、いつ自分が感染するか分からないという恐怖をもって生活しています。実際に感染して必死に戦っている人も大勢います。
教会が、日曜日に礼拝を休止するなど、あり得ないことが起こっています。いつ収まるのか、いつ再開できるのか分からないのです。
そのような苦しく、悲しく、絶望する者のそばに来て下さり、共に歩んでくださるのが主イエスです。
主イエスは自分は優秀で、何もかも分かっていると思っているような人の為に来たのではないと言われました。
主イエスは罪人に寄り添い、罪に苦しみ悲しむ人を励まし、慰めて悔い改めに導いてくださいます。
主イエスがマタイをお召しになった折、マタイは、イエスのために自分の家で大宴会を開きました。そこには他の徴税人や罪人と言われる人たちが大勢一緒の席に着いていました。
ファリサイ派の人や、律法学者たちは、「なぜあのような罪人たちと食事をするのか」と非難しました。その時、主イエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31、32)と言われました。
主イエスは罪を悲しみ、苦しむ人に寄り添い、悔い改めに導いてくださるのです。
暗く悲しく、あるいは怒りさえ覚えていたクレオパやもう一人の弟子は、復活された主イエスによって、変えられました。御言葉により心が燃えたのです。生かされました。
もう暗くなっていたにもかかわらず、エルサレムに戻ったのです。その足取りは来るときとは雲泥の差であったと思われるのです。
キリストの十字架は、自分の罪の贖いの為であり、主イエスは甦られた、ことを受け入れました。
復活された主イエスがおいで下さった。
絶望から生ける希望と、命の可能性に変えられました。
主イエスは人を変えてくださいます。主イエスが寄り添って下さるからです。
きょうも主イエスは私たちと共に歩まれます。聖書の御言葉によって心を燃やして下さり、すべてを委ねていくようにと励まされます。
本当に先の見えない中で、困窮し、困惑する日々です。しかし、主イエスは光として私たちを導き、豊かに命に満たして下さいます。
イエスこそ救い主であると伝える事を止めてはなりません。
教会に今はお誘いできませんが、あなたの許に主イエスは来て下さり、慰め、御言葉によって心を燃やして下さると伝えましょう。
どのような闇にも、キリストという光は勝利します。光が差し込む時、闇は闇ではなくなります。
復活の主イエスを褒め称えましょう。勝利の主を崇めましょう。


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