阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年5月3日
「見ないで信じる者」
ヨハネによる福音書20章24-29節

 普段の年なら休みが続き、嬉しいゴールデンウィークですが、今年は新型コロナウイルス拡大防止のため、出かけないで家にいる日々が続いています。この時期の忍耐が早期のコロナウイルス感染収束につながるようにと祈り、世の中の人が心を合わせて、収束に立ち向かうために忍耐できるようにと祈ります。
 私たちの教会のyoutube礼拝も3回目を迎えています。兄姉の奉仕で録画と配信ができることを感謝します。来週、10日の母の日礼拝が教会での礼拝再開になるのか、youtubeが続くのかまだわかりません。国からの非常事態宣言の延長や、自治体の学校再開延長などを踏まえながら祈って決定したいと思います。決定次第お知らせいたします。
さて、主イエスは復活された日曜日の夕方、家に集まっていた弟子たちの許に来てくださいました。彼らの真中に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言って下さいました。弟子たちは、主イエスの遺体は墓にはなかったけれど、復活されたとの情報も信じられず、平和な心などどこかにいってしまい、恐れと困惑の中にいました。そこへ復活された主イエスが来てくださったのですから、有頂天になって喜びました。平和とは、ありとあらゆる祝福があなたの上にありますようにという言葉です。神と人との平和、霊的な祝福、生活の祝福、心と体すべてが豊かに祝福されますようにという言葉です。
主イエスは弟子たちに、平和を告げ、福音のために遣わすという大切な使命を与えられました。
ところで、この日、そこにいなかった弟子がいました。トマスという名の弟子です。彼は、ディディモと呼ばれていました。ディディモとは、双子という意味です。
トマスが、仲間の所に来ると、皆は喜びに興奮していました。弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言った時、トマスはどのような気持だったでしょうか。「主を見た」というより、「主にお目にかかった」という方が分かりやすいと思います。弟子たちは、一回言ったのではなくて、「主にお会いした、主が来られた」と、何回も言い続けたのです。それでもトマスはその言葉を素直に受け入れる事ができませんでした。
それで、トマスは疑い深いトマスと今日まで言われています。
ヨハネによる福音書14章で、主イエスは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。そうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:1−3)と言われて、さらに「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われたのです。(14:4)その時トマスは、「わたしたちにはわかりません」と答えました。それで主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:5)とお答えになりました。誰でも救い主であるイエスという道を通らなければ救いにあずかることはできない、父のもとに行くことはできないという、大切な真理を教えて下さいました。きっかけはトマスです。
トマスは疑い深いとうより、まじめで御言葉をよく聞く人であったようです。分からない時は分かりませんという人の様でした。
トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20:25)と、言い切りました。
トマスは他の弟子たちの中にあって、一人だけ疎外感を覚えていたかもしれませんが、彼らから離れる事はありませんでした。
8日後に、主イエスは再び弟子たちの所に来てくださいました。今度はトマスも一緒にいました。主イエスはトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と言われました。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をしたのです。
主イエスは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)と、続けて言われました。
人は、誰でもトマスの様に疑い深い心を持っています。トマスだけではなく、他の弟子たちも、主イエスが来てくださるまで、主の復活を信じられなかったのです。
主イエスが教えられる信仰の本質は、「見ていないけれども信じる」という事です。人は見えるものを見て生活しています。見えるものとは、生活全般について、自分が必要とするものすべての事と考えられます。この世の必要です。ある人は、見えるものがすべてだと考えます。財産があればすべてが解決すると考える人もいます。はたしてそうでしょうか。聖書はどのように教えているでしょうか。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Uコリント4:18)とあります。
今、体の目で主イエスを見る事はできません。しかし、生きておられて私たちを生かし、慰め、助けて命を与えてくださいます。祈りに答えて栄光を現すお方です。
何よりも永遠の希望、神の国を継ぐ者として下さって、重い栄光に満ち溢れさせて下さいます。主イエスは、見えない御手で日々導き続けて下さるお方です。
ルカ21章1節から、やもめが神殿に献金をささげたという記事が記されています。主イエスは、金持ちたちが献金を賽銭箱に入れるのをご覧になっていました。そこで、主イエスは貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのをご覧になりました。すると、主イエスは、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」(ルカ21:1−4)と言われました。当時のやもめは、生活の手段がありませんから、親戚か誰かの助けがなければ生活できませんでした。レプトン銅貨2枚は200円くらいかもしれません。もっと少額であるとも考えられます。しかしそれがこのやもめの全財産、生活費全てでした。金持ちは有り余る中からささげたのですから、生活にも何も支障はありません。やもめは自分の生活費すべてをささげて、自分を神に委ねたのです。
命も、生活も神のもの、苦しくても神の恵みの中にあるという信仰によってささげたのです。なぜなら、この人には、神は、孤児やもめという弱者を見放さないという信仰がありました。畑の穀物やブドウなどをすべて収穫しつくさずに残しておくことが規定としてありました。それは孤児、寡婦、寄留の外国人の為でした。ヤコブの手紙でも、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」(ヤコブ1:27)とあって、神は弱い者を守り、かえりみられるお方という事が分かります。 
主イエスは、見ないのに信じる、見えないものこそ大切だと教えておられます。見えるものを信じるのは信仰ではありません。見えるものだけを求めて生きても真の救いはありません。自分の魂の満たしは得られず、永遠の命もないからです。
私たちを愛し、その独り子でさえも惜しみなく与えて下さった真の神、この方に造られた私たちは、今、見る事はできなくても、その御言葉を信じて生きるのです。
私たちを生かすものは、真実の信仰です。まことの救い主イエスを信じて従う事です。自分の命も、生活もすべてを委ねきり生かされることがこの世の中で最も幸いな生き方と考えることが出来ます。コロナウイルスの拡大防止のために、休止する企業も多く、生活がひっ迫し、精神的にも弱る人々が大勢います。この時こそ、目には見えませんが生きておられる救い主を見る事ができるように祈りましょう。イエス・キリストこそ救い主です。道を開き、共に歩み続けてくださるお方です。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われる主の御言葉を心に刻み、見ないで信じる者の幸いを感謝したいと思います。


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