阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年5月10日
「私の母とは、兄弟とは」
ルカ8章19-21節

 母の日礼拝がyoutube礼拝となりました。昨年の母の日には、ブルメンダール先生がご奉仕してくださり、楽しく幸いな礼拝であったことを思い返しています。
新型コロナウイルス拡大防止のために5月末まで非常事態宣言が延長されました。教会は5月末をめどにすべての集会を休会といたします。6月には再開できるように祈り続けてまいりましょう。
母の日は、1907年、アンナ・ジャービスという婦人が、母が所属していた教会で、2年前に召された母の記念会を行い、参列者に母の信仰と献身の記念として、白いカーネーションを渡しました。
母の日の起源は、教会での記念会です。その後、アメリカ全土に広がり、1914年に、5月第二週を母の日とする法律が施行されました。     日本では、戦後、お母さんが存命の人は赤いカーネーション、召されている人は白いカーネーションによって母を記念し、感謝するということが広まりました。
日頃のお母さんのご苦労を思い、感謝したいと思います。
お母さんが、まだ信仰をおもちでなければ、救いをこれからも祈ってまいりましょう。
さて、主イエスは、30歳になられて公にその働きを始められました。公生涯は、わずか3年半でした。
主イエスは40日の間荒野で断食して祈り、サタンの誘惑を退け、神の国を宣べ伝えて、町々村々を巡回されて教えておられました。
ガリラヤ湖の漁師であったペトロやアンデレ、ヨハネ、ヤコブなどを弟子として召されました。主は、人々が飼う者のない羊のように弱り果てているのをご覧になって、深く憐れんで、救いの御手を差し出してくださいました。
主イエスは、公生涯の初めに、お育ちになったナザレでお教えになりました。しかし、ナザレの人々は、「この人はヨセフの子ではないか」と言って、主イエスを受け入れようとはしませんでした。主イエスは、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と言われて、人々が不信仰だったので、多くの御業はなさいませんでした。それだけでなく、人々は主イエスを、町の外の崖(がけ)から突き落とそうとまでしました。しかし、主は人々の真ん中を通り抜けてカファルナウムへ下って行かれたのです。
多くの人々が主イエスの教えを聞きに集まっていました。
そこへ、主イエスの家族がナザレからやってきました。母と、兄弟たち、マルコによる福音書には、姉妹たちもやってきたとあります。家族総出で主イエスのところに来ました。これは、信仰を求めてきたわけではありません。イエスが何やらいろいろと教えていて、人々がたくさん集まっている。なにか困ったことが起こるといけないから、家に連れて帰ろうとしてやってきたのです。
もちろん、母マリアは、天使による受胎告知を受けてイエスを出産しました。聖い御霊によって身ごもったということを忘れたわけではありません。
イエス以後の弟妹達は夫ヨセフの子供達です。
マリアは、主イエスがガリラヤのカナの結婚式で、水を最上の葡萄酒に変えたという奇跡も目の当たりにしていました。
母は、主イエスを守ろうとしたと、考えられます。弟たちは、ガリラヤにおられる主イエスに、「こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」と言っています。ユダヤ、すなわち都へ行きなさい。そこで働いたらよいでしょうという意味です。それは、主イエスを信じていないところから出てきた言葉でした。
母マリアも、弟妹達もそれぞれの思いがあって、主イエスのところに来たのですが、思い違い、的外れであったと考えることがでます。
それは、主イエスのご生涯の意味と目的がまったく理解できていなかったということです。ちょうどペトロが主の十字架と復活の予告を受けた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめた気持ちと同じ思いです。
家族は心許せる存在です。本音や、弱さや、あるいは、だらしなさまでさらけ出しても構わないような存在です。それを全部受け入れて包み込んでくれるのが 母や、家族のすばらしいところです。
その、すばらしいところに、時にはサタンが働きます。「主イエスに従うのは大変だからやめておきなさい」。「主イエスよりもあなたの方が大切だから、従うのはほどほどにしておきなさい」。などと、やさしくささやきかけ、働きかけてくるのです。サタンは、ある時には光の天使を擬装し、ある時には吠えたける獅子のように働きます。それとわからないように巧妙に、何とかして、主イエスの救いと栄光の光から引き離そうと画策します。
主イエスに、「母上とご兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」と知らせてくれた人がいました。
その時、主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8:21)と言われました。
主イエスは、ご自分の家族のことをどう思っておられたのでしょうか。否定したり、退けられることは決してありません。家族を愛しておられます。私たちも家族を愛し、大切にするのです。
主イエスは、「神の言葉を聞いて受け入れること」の大切さをここでお教えになったのです。
家族は大切です。大事にしなければなりません。家族のうるわしさと祝福を、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り衣の襟に垂れるアロンのひげに滴りヘルモンに置く露のようにシオンの山々に滴り落ちる」。(詩編133:1−3)とうたっているのです。
家族が和合し、信仰的な一致を持つ家庭が得られる霊的な祝福です。聖霊が滴り、満ち溢れる家族の恵みが描写されています。
教会では、お互いのことを兄姉と呼びます。主イエスが十字架に架かってくださり、私たちの罪を許してくださいました。それで、天地創造の神を父とお呼びすることができるようにしていただけたのです。神の子とされたのです。十字架の救いのゆえに、私たちはお互いを兄姉と呼び合うことができるようになりました。主イエスの十字架による罪許された者同士としての兄姉なのです。
主イエスを信じて、罪が許された者は、神の家族です。そして、神の家族は、御言葉を聞きます。そして、御言葉によって生かされ、生活します。
主イエスは、十字架上で母マリアを弟子のヨハネに託しました。ヨハネはマリアを自分の家に引き取りました。ヨハネが監督として奉仕したエフェソには、マリアの家と呼ばれる小さな家が残っています。
また、主イエスを信じないでいた兄弟ヤコブは、後に主を信じて、エルサレム教会の指導者として働きました。良くひざまずいて祈るので、ひざがこぶのようになっていたと伝えられ、義人ヤコブと呼ばれました。
後にヤコブの手紙を書きましたが、ヤコブの手紙は、信仰について実際的に教えている手紙です。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:22)とあります。まさしく主イエスが教えられた、「神の言葉を聞いて行う人」となり、真の主の兄弟となりました。
ヤコブは殉教に至るまで、信仰に生き、信仰の生涯を全うしました。
主イエスを理解せず、取り押さえようと考えた兄弟が、十字架により新しく造り替えられ、死に至るまで信仰に生きたのです。
母の日にあたり、私たちは、まず自分自身の信仰を顧み、御言葉を聞いて行うことに真剣に取り組み、祈る者でありたいと思います。
お母さんのために祈り、家族のために祈り、救いと喜びに満ちた家庭であるように祈り続けましょう。御言葉を聞き、従う家族として祈りましょう。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16:31)


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