阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年5月24日
マルコによる福音書14章3-9節
「わたしに良いことをしてくれたのだ」

 5月第4週目の礼拝をささげましょう。まだ、教会に集まることは、できませんが、それぞれのご家庭で心を合わせて礼拝しましょう。
主イエスが共におられます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)という厳粛な御言葉を深く心に刻みましょう。
主イエスはベタニアのシモンという人の家で食事をなさいました。このシモンは、重い皮膚病であったと紹介されています。重い皮膚病の人は、村や住民のいるところでは生活できません。シモンはいやされて、その祝いの席であったのかもしれません。
食卓を囲み、食事を共にすることは、非常に親しい関係を考えることができます。
そこへ、一人の婦人が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺をもって入ってきました。ナルドがどれほど素晴らしい香りの香油なのか、残念なことに今はわかりませんが、ナルドの香油はナデシコ科の植物から抽出されて精製された香油でした。
当時、この香油は本当に高価なもので、婦人が結婚するときに持っていくためのものだと言われています。
婦人は壺を壊し、香油を主イエスの頭に注ぎかけました。そこにいた人たちはこのことを見て、憤慨しました。腹を立てて互いに「なんでこんな無駄遣いをするのか」と言い合いました。マタイによる福音書には弟子たちが言ったとあり、ヨハネによる福音書によれば、イスカリオテのユダが言ったとあります。いずれにしても、その場にいたものは非難しました。
 「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリ以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14:4,5)と、言ったのです。300デナリとは、300日分の賃金に相当します。
しかし、イスカリオテのユダは、貧しい人を思いやったわけではなく、皆の財布を預かっていながら、中身をごまかし、盗んでいたからだと、ヨハネによる福音書にはあります。自分の行いを無理に正当化しようとしていたのです。
とにかく弟子たちはこの婦人を厳しく非難しました。
すると、主イエスは、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるのだから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(マルコ14:6−8)と弟子たちをとどめ、この婦人は、ご自分の埋葬の準備のための香油を注いだと話してくださいました。
 この食事をしたのはいつでしょうか。過越祭と除酵祭の二日前、それは水曜日だったと思われます。
マルコ14章12節以下で、主イエスは弟子たちと過越の食事をなさいます。最後の晩餐といわれる食事です。これが木曜日です。翌日の金曜日には十字架に架けられます。
十字架で死なれた主イエスの埋葬は、安息日にかからないよう、急いで行われました。きちんとした葬りは安息日が明けてからでないとできなかったのです。
 十字架の死の後、充分に埋葬の準備ができない主イエスのために、この婦人は大切なナルドの香油を使い切りました。ですから、主イエスは、「わたしに良いことをしてくれたのだ。・・・この人はできる限りのことした」と言われました。
イエスは、キリスト、メシアです。メシアとは、「油注がれた者」という意味です。すべての人の罪の贖いとして十字架に架けられ、死んで、三日目に復活されたお方です。
この婦人は主イエスを心から愛し、その愛と献身を、香油を注ぐことで表しました。
主イエスは、「わたしに良いことをしたのだ」と言われましたが、「良いこと」とは、「美しいこと」をしてくれたという意味があります。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」
(伝道3:11口語)という御言葉のように、十字架の時にかなった美しいこととして、世界中で記念されることになりました。
この婦人は、主イエスがベタニアに来られた時、大切な香油を注ぎたいと思いました。弟子たちは、「無駄遣い、もっと有効に使うべきだ」と言いましたが、この婦人は何の計算もなく、香油を注ぎました。
主イエスは、翌日には弟子たちと最後の食事をされ、ゲッセマネでの祈りの後、逮捕されます。十字架への道を進まれたのです。
主イエスの十字架は誰のためだったのでしょうか。全世界の人々を罪から贖うため、ご自分の命を差し出してくださいました。
罪を罪とも思わず、神に敵対し、滅びの道を歩み続けるすべての者を救うために命を捨ててくださいました。
これは、命の無駄遣いといえるのではないでしょうか。
主イエスは、立派な者のためではなく、罪に苦しみ、罪に縛られてもがいている者の救いのために、十字架に架って死んでくださいました。
主イエスは、それを決して命の無駄遣いとは言われません。
「実に、キリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:6−8)と御言葉は教えています。
「まだ弱かったころ」、「不信心な者のため」、「まだ罪人であったとき」に、主イエスは十字架で死んでくださり、神はその愛を示してくださいました。
人を罪から贖いだし、永遠の命を与えるために神の独り子を十字架に架けて、惜しみなく尊い血潮が注ぎだされたのです。このように神はその愛を示してくださいました。
惜しみなく注いでくださる愛と救いに対して、私たちはどのように応答していけばよいのでしょうか。
惜しみなく注がれる愛に対しては、愛の応答がふさわしいと考えられます。神に対する愛の応答です。
主イエスは、「神を愛し、隣人を愛す」ということを、最も大切なこととして教えておられます。
十字架で救われ、神に愛されていることを知っている者は、主イエスの教えに応答します。
主イエスは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。第二の掟は、「隣人を自分のように愛しなさい」この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29−31)と、教えておられます。
私たちは自分の持てるすべての力を尽くして神を愛することと、隣人を愛することによって、神に応答します。
もし、そのようにしたいと願い求めるなら、わたしたちの内にお住まいくださる聖霊が、私たちを作り変えて、神の愛に応答する者にしてくださいます。
神の御霊は、御心を求める者に御心を教え、神の愛に満たし、神と人を愛する者として日々整えてくださるからです。
神への愛の応答として、人に主イエスを伝え、救いの喜びを語ります。神への愛の応答として、時間をささげ、奉仕に勤しみます。神への愛の応答として、礼拝し、自分自身を神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてささげます。
主イエスは、あなたもわたしに良いこと、美しいことをしてくれた、祈りの中でそのように御声をかけてくださいます。
私たちが主イエスに仕える動機が愛によるものなら、事の大小によらず、「あなたはわたしに良いこと、美しいことをしてくれた」と、御声をかけて、さらに主の御用に用い続けてくださるのです。
私たちの魂の奥深くにいつも神への愛が溢れ、愛の応答をしていく日常であるように、さらに求め続けていきましょう。


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