阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年6月21日
御父の愛
ヨハネの手紙T 3章1節

 今日は、6月第3日曜日で、父の日です。父の日は、アメリカで、
1972年、国の記念日として制定されました。ドッドという婦人が自分を育ててくれた父親に感謝し、父親の誕生月である6月に教会で礼拝したことから始まりました。
母の日も父の日も、信仰の記念であり、教会での記念会、礼拝から始まっています。
家族を愛して祈り、働いて下さるお父さんを覚えて祝福を祈りましょう。
また、父の日に、私たちの父なる神を見上げて、その愛を改めて考えてみたいと思います。
主イエスのたとえ話に、父の愛が良く表されています。
ルカ15章11節以下にある、放蕩息子のたとえ話です。
ある人に二人の息子がいました。ある時弟息子が、自分が受け継ぐはずの父親の財産が欲しいと言い出しました。普通遺産として受け継ぐはずのものです。父親は、二人の息子に財産をわけてやりました。すると、弟息子は何日もしないうちに財産をもって家を出てしまいました。財産をすべてお金に換えて出て行ったのです。
弟息子は、遠い国に生き、好きなように暮らし、放蕩の限りを尽くして全財産をなくしてしまいました。まったくの無駄遣いでした。
間の悪いことにその地方に飢饉が起こりました。弟息子は食べることにも困り、人に助けを求めましたが、彼はそこで豚の世話をすることになりました。
律法では、豚はけがれた動物であり、ユダヤ人は豚を食べることはしません。また、豚を飼うこともありませんでした。
ユダヤ人にとっては、考えられないほどの、最低以下の境遇になってしまいました。彼は、豚のえさのいなご豆でも食べたいと思うほどの空腹に苛まれたのです。それではじめて弟息子は我に返り、父親のことと我が家のことを思い出しました。自分が父の家でどのように幸いな生活をしていたかを思い出したのです。
お父さんのところでは、大勢の雇人が有り余るほどのパンを食べていた。わたしはここで飢え死に寸前ではないか。家に帰ってお父さんに謝ろうと思いました。謝罪の言葉を考えました。
「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」このように言おうと思いました。本気でした。許されないことをしたと気づいたのです。
自分が天に対してもお父さんに対しても大変な罪を犯していることに気が付いて、生き方の方向を転換しました。悔い改めたのです。
直ちに出発して我が家を目指しました。道すがら何度もお父さんに詫びる言葉を反復したでしょう。
お父さんの心を理解しようともせず、その悲しみさえも分からなかったような息子が、悲惨な境遇に陥ってやっと本来の心を取り戻しました。
ところが、お父さんは息子の帰りを毎日待ち詫びていました。
まだ遠くにいる息子を見つけました。そして、走り寄って首を抱いて接吻しました。ボロボロの服を着て疲れ果て、みじめな姿の息子を抱きしめたのです。
息子は心の中で何度も反復したお詫びを言いましたが、お父さんはそれに答える間もなく、雇い人に指示をしました。一番良い服を着せなさい、指輪をはめなさい、履物を履かせなさい。良い服も、指輪も、履物も、奴隷ではなく息子のしるしです。そして、肥った子牛を屠ってお祝いをしようといったのです。肥えた子牛の宴会は、特別な時、特別なお客様のためにしか開かないものです。
創世記18章に、アブラハムが御使いをもてなしたという記事があります。アブラハムは、御使いを認めると、走り寄って迎え、地にひれ伏して引き留め、柔らかくておいしそうな子牛を調理してもてなしました。その時、アブラハムは立って給仕をしたとあります。
アブラハムは、何かただならぬことを感じて御使いを引き留めてもてなしたのですが、この時、御使いは来年男の子が生まれていると預言をしました。年を重ねた自分たちに子どもが与えられるのかと、サラは笑いましたが、約束はその通りになり、一年後約束の子イサク、「笑い」が生まれました。
父親は、どうしようもない息子が帰ってきたことを喜んで、特別な宴会を開きました。これ以上ないほどの大歓迎で息子を迎えたのです。
この父親の振る舞いについて、兄息子は不快をあらわにし、お父さんに苦情を言いました。お父さんに忠実に長く仕えている私のためには、宴会をしてくれたことがない、子ヤギ一匹くれたことがないのに、あなたの財産を食いつぶして放蕩の限りの尽くした弟が帰ると、なぜこんな特別な宴会を行うのか、と非難したのです。父親は、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と、語りました。主イエスによる、父なる神の愛を表すたとえ話です。
好き勝手に生き、自分の欲を満たすことしか考えられない弟息子の姿は、罪をよく表しています。
また、父の喜びを喜びとしない兄の姿もまた、人の罪の姿を表しています。弟が帰ってきても喜びを感じないのです。裁く心しかありません。そして、自分の義を誇るような心でした。
私たちは主イエスに見いだされるまで、どのように歩んできたのでしょうか。自分では立派にやってきたと思っていても、御父から離れて自分の思うようにしか生きることができませんでした。魂の飢えに苛まれ、心を満たしてくれるものが欲しいと求め続けたのではないでしょうか。
真の神である御父から離れて、さまよっていました。
「我に返る」とは、本来自分が居るべきところ、御父のもとに帰ろうと決心することです。主イエスを心に受け入れて生きていくことです。
御父は、私たちが御許に帰るのを、首を長くして待ちわびていてくださいました。
御言葉には、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(Tヨハネ3:1)とあります。
どれほどの愛をもって愛してくださるのかということです。
神の愛、アガペーの愛は、迎え入れてくださる愛です。はるか彼方を見ながら、罪にまみれて苦しみ、やっと我に返って父のもとに帰る息子を待ちわびる愛です。息子が帰った時、叱責ではなく、責めることもせず、ただ大きな喜びをもって最大限の歓迎をしてくれる愛です。
その愛は、イエス・キリストを罪の贖いとしてくださる愛です。Tヨハネ4:10には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とあります。
私たちが御父から離れて罪の中にさまよっていた時、父がまず私たちを愛してくださり、その尊い独り子を罪の贖いとしてくださったのです。
これ以上ない御父の愛を覚えましょう。
私たちが御父のもとに帰ったとき、天では大きな祝宴が開かれて、大きな喜びの声が沸き上がったのです。私たちは御父の愛、主イエスの十字架により、罪の赦しを受け、神の子とされました。永遠の救いという特権をいただき、いつでも自由に神の前に出て祈ることができます。
私たちは、やがては御国に帰りますが、今この世に生きています。世は、このすばらしい御父を知っているでしょうか。御父とその愛を知らず、私たちがいただいている天の祝福も知らずに、魂の飢えに苦しむ人は大勢います。
我に返り、御父のもとに帰るように、根気よく祈り、救いを語っていくことこそが、先に帰ることができた「神の子」のなすべきことと教えられます。
父の日に当たり、私たちを生み出し、養い育て、愛を注いでくれるお父さんの祝福を祈ります。そして、天の御父の愛を感謝し、救いを喜び、永遠に御父のもとにおられるという喜びに満たされたいと思います。

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