阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年6月28日
福音を伝えながら
使徒言行録13章1-3節

 一週間も守られて、主の日に教会で礼拝をささげられる恵みを感謝します。まだまだコロナウイルスの感染は終わらずに、先週は尼崎市でも感染の報告がありました。東京でも二ケタ台感染が続いているようです。
感染しない、させないことに注意しながらの生活を続けましょう。
SSと日曜礼拝以外の集会他は、当面休止を続けてまいります。
慎重に様子を見たいと思います。お祈りください。
ペンテコステの日に聖霊が注がれ、人々が救われて教会が誕生しました。教会では、心を一つにして、祈りと賛美がささげられ、パンを裂き、主イエスにある交わりが持たれていました。その様子は民衆全体から好意を持たれて救われる者が日々加えられていきました。
教会は、主イエスの十字架の贖いの死と、復活を宣教し、証しをしていきましたが、ユダヤ人たち、宗教指導者たちはことごとく反対し、ある時には使徒を逮捕し、宣教を禁止しようとしました。
ところが、教会は、「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(使徒4:29、30)と祈りました」。
祈り終わると一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだしたのです。
迫害を恐れず、ますます宣教に励もうと祈り続けました。
エルサレム教会の7人の執事の一人、ステファノは、恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを行う人でした。ある、時「解放された奴隷の会堂」に属するユダヤ人、また、キリキヤとアジア州出身のユダヤ人が、ステファノと議論をしました。
「解放された奴隷の会堂」に属している人々とは、BC61年にローマに連れていかれたユダヤ人たちを言います。奴隷とされたのですが、後に解放されて、連れていかれた先でもユダヤの会堂を立て、ユダヤ教徒として生活していました。ローマへ連行されていったのは、このステファノの時から90年くらい昔のことです。
外国で生活して、ディアスポラと呼ばれていた人々も、自分たちはユダヤ人として律法を守っているという誇りがあったのです。
ステファノは、知恵と“霊”で語るので、彼らは論争に勝つことができませんでした。それで、人々にステファノがモーセと神殿を冒涜したと、偽りの証言をさせて、議会に引き出しました。
神を信じていると言いながら、偽りの証言で人を陥れるとは恐ろしいことです。十戒には、「隣人に関して偽証してはならない」(出20:16)とあります。神を恐れるならできないようなことをしました。
その結果、ステファノは議会に引き出されましたが。旧約聖書から始めて、とうとうと主イエスの十字架の贖いの死と復活を証言しました。
 人々は激しく怒り、大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノを石打ちに処しました。ステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで殉教したのです。
このステファノの殉教をきっかけとしてエルサレム教会に対する激しい迫害が始まり、使徒以外のものは、地方に散らされていきました。
後に使徒となったパウロは、ステファノの殉教にも立ち会い、主イエスを信じる者の家の教会に次々に押し入って荒らしまわり、男女を問わず捕らえて牢獄に送るようなことをしていました。
一方、地方に散らされていった人々は、福音を告げ広めながら巡り歩いていきました。迫害という患難の中に、行く先々で福音が伝えられていったのです。
また、パウロは、ダマスカスへ信者を捕らえに行く途上で、復活の主イエスに見いだされて、悔い改めました。迫害する者から福音に仕える者に変えられて、生涯、キリストを伝える伝道者として働くことになりました。
迫害され、散らされて行った人々は、遠く、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行きましたが、ユダヤ人以外には伝えていませんでした。
しかし、アンティオキアでギリシャ語を話す人々に福音を伝えました。アンティオキアは、シリアの都で地中海沿岸の商業や文化の中心地で大都市でした。当時のアンティオキアには、様々な人種が集まっていました。ギリシャ人や、ディアスポラと呼ばれるユダヤ人、また、アジア州から来た人々もいました。
ここで福音が語られると、主が助けてくださり、主イエスを信じて救われた人々が起こされました。異邦人の教会が誕生したのです。
エルサレム教会は、アンティオキア教会のうわさを聞き、バルナバを遣わしました。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰に満ちた人であると紹介されています。
バルナバは、アンティオキアの教会を見て、そこに救いの喜びが満ち溢れているのを覚え、心から喜びました。
そして、固い決意をもって主から離れることがないようにと、皆に勧めました。固い決意をもってというのは、「動かされないで、堅固な心をもって」主イエスに従い続けるということです。誰にでもいつの時代にも当てはまる勧めです。
バルナバは、キリキアのタルソスに、パウロを探しに行きました。険しい道のりをはるばると出かけていき、無事にパウロを連れてきました。
様々な人種の人々がいたアンティオキアの教会ですが、主イエスを救い主として信じ、主イエスを信じる信仰で一つになりました。
アンティオキアの信徒たちは、救われたことが嬉しくて、常にイエス・キリストを証ししました。生活は主イエス・キリスト中心になりました。
アンティオキアにも偶像の神殿があり、人々は偶像礼拝をしていました。主イエスを信じた者は、偶像を礼拝しなくなり、生活が整ってきます。人が罪に誘っても、「私はイエス・キリストを信じたので、もうそのようにはしません」、「主イエスを信じなさい」と言うように変えられていきました。それで、ここで主イエスを信じた者が、あだ名でクリスチャンと呼ばれるようになりました。
アンティオキア教会は使徒13章1節に記録されているような人々が集っていました。パウロもバルナバも外国で生まれ育ったディアスポラです。ニゲル(黒い)と呼ばれるシメオンは、アフリカ系だったようです。キレネで生まれたルキオも名が挙がっています。キレネも北アフリカにある地名です。ルキオもアフリカ系と思われます。ヘロデ・アンテパスの乳兄弟マナエンもいました。アンティオキア教会は、このように様々な出身の人々が立て上げた教会でした。
教会で礼拝をし、祈っているとき、聖霊が「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」(使徒13:2)と語られました。
これは、宣教のために彼らを遣わすということです。エルサレムの大迫害から宣教が各地に広まり、また、このアンティオキアから、福音が広められていくのです。そのために、バルナバとパウロが選ばれていました。教会は、さらに断食して祈り、二人に按手の祈りをして出発させました。
第一次宣教旅行です。パウロとバルナバは宣教の第一線に出ていきました。宣教は、迫害と危険の連続でした。教会では祈りの手が挙げられていました。宣教旅行は、その後二回、三回と行われて、主イエスの福音は伝えられていきました。第二次旅行の時に、マケドニア、今のギリシャにまで福音が伝えられていったのです。
アンティオキア教会は、第一回、第二回、第三回の宣教にパウロたちを送り出し、迎え入れました。宣教の報告を聞き、また送り出したのです。しかし、第三回の時には、パウロは投獄されたので、この教会には戻ることができませんでした。
アンティオケア教会は、生まれた国も、育ちも違い、身分も職業も違った人々が主イエスを心に受け入れて救われ、建て上げられた教会です。宣教のために大きく用いられました。一致して祈り、聖霊の声を聴く教会でした。福音を伝える時に、迫害は起こります。しかし、それを超えて主イエスの救いの御業は起こります。一つとなること、祈り、聖霊の声を聴くとき、必ず救いの業が広く起こされ拡大していくのです。


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