阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年7月5日
福音の前進のために
フィリピ1章12-18節

 主の御名を崇めます。今日も心を合わせ一つとなって心からの礼拝をささげましょう。
 新型コロナウイルスの拡大は止まらないようです。また、埼玉県では、3千人規模の児童の食中毒も起きています。コロナだけではなく、さまざまな感染症が発症しています。手洗い、マスク、手指の消毒など、注意深く生活していきましょう。
 本日は、フィリピの手紙から御言葉に聞きたいと思います。フィリピという町は、今のギリシャにありました。パウロがトロアスという町で、マケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」と願う幻を見て、マケドニア伝道に踏み出し、教会が建て上げられました。その時、パウロが行こうと思っていた地方には入ることができなかったので、マケドニア伝道こそ御心と悟ったのです。
この手紙は、ローマの獄中にあるパウロが贈り物の感謝をと共にフィリピの信徒たちに送った手紙です。
パウロは、フィリピ伝道の時、占いの霊につかれた女奴隷をいやしたことから訴えられ、何度も鞭打たれてシラスと共に牢屋に入れられました。
その夜、パウロとシラスは鞭うたれた体を足枷につながれながらも、賛美を歌っていました。囚人たちはその賛美に耳をすましていました。    突然地震が起こり、囚人の足枷は外れ、牢屋の戸が全部開いてしまいました。驚いた看守は囚人が逃亡してしまったと思い、自害しようとしました。当時、囚人を逃がすと死刑になったのです。パウロは大声で誰も逃亡していないからと止めました。看守はパウロとシラスにひれ伏し、救われるためには何をしたらよいのかと、聞きました。パウロとシラスは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)と答えました。夜中でしたが看守はパウロたちの傷の手当てをして、自分も家族も洗礼を受けました。そして家に連れていき、食事を出して主イエスを信じる者になったことを家族ともども喜びました。フィリピ上陸からすぐに祈り場で出会った紫布の女商人リディアと共に、この人たちがフィリピ教会の礎(いしずえ)になりました。
パウロは、かつて鞭打たれて投獄されたという出来事など忘れたように、フィリピの信徒たちに、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(フィリピ1:3)と書き送りました。
パウロは、フィリピの信徒たちを思い起こす度に神に感謝し、いつも喜びをもって祈りました。この手紙は、喜び、喜ぶという言葉が19か所も使われていて、喜びの書簡と呼ばれています。
犯罪の結果ではなく、キリストを伝えて牢に繋がれることは、理不尽で、悔しさを覚えても不思議ではないと思います。主イエスにあなたを伝えたために牢にいますと、訴えたくなるのではないでしょうか。しかし、パウロは、「わたしの身に起こっていることが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(フィリピ1:13)と記しました。
自分の境遇が福音の前進、拡大に役立っていると喜んでいるのです。
さらに、そのパウロの姿に、兄弟たち、すなわちキリストを信じる者たちが、新しい信仰の確信を得て、以前よりも大胆に、恐れなく神の言葉を伝えるようになったのです。
パウロは、宣教の動機として、愛によるものと人間的な思いによるものとを並べて記しました。
キリストを宣べ伝えるのに、「ねたみと争いの念にかられて」する者と、「善意で」する者があるということです。
「善意」でするとは、忠実な心で宣教する人たちという意味です。パウロが福音のために牢に入れられていることを知っていて、愛の心で宣教する人々です。
一方は、妬みと党派心から、宣教する人々がいました。それはキリストを伝えたいという純粋な心からではなく、むしろパウロの束縛が厳しいものになることを期待して宣教する人々がいたのです。パウロを一層苦しめるために宣教することに、何か意味があるのかと疑問に思うところです。
ところが、パウロは「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリピ1:18)と告白しました。動機が何であれ、キリストが伝えられることを喜んだのです。
パウロは、この時も迫害という大変な試練の中に置かれていました。しかし、パウロの内にある喜びは誰も奪うことはできませんでした。
人は、様々なことによって喜びを覚えます。自分に良いことがあったときは嬉しくて喜びます。それは、人生の中で喜びの思い出となります。
人は、自分が貶められ(おとしめられ)、不利になるようなことで喜ぶことができるでしょうか。試練の中で喜ぶことができるでしょうか。
投獄されていたパウロはいつも喜びに満たされていました。それは、環境や状況に左右されず、自分自身の状態にもよらない喜びです。
この喜びは、ちょうど主イエスが、「わたしの平和をあなたがたに与える」(ヨハネ14:27)と言われたのと同じ、主イエスの喜びということができます。世において得る喜びではなく、主イエスの喜びです。
パウロは、主イエス・キリストに見いだされて、信じる者になったこと、罪が許されて新しい命を得たこと、「新生」が本当にうれしく、喜びであったのです。
その喜びはいつまでもなくなることのない、聖霊による喜びです。
主イエスの十字架により、罪が許された喜び、救われて永遠の命に生かされている喜びは、キリストを信じる者が誰でも満たされている喜びです。
パウロのこの時の投獄は、やや緩やかな状況であったと言われていますが、第二テモテを記した頃は、処刑が近づいているような時でした。これから一刻一刻召される時が近づいているのですが、「わたしにとっては、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と言い切りました。今は主イエスの命に生かされていて、召されるなら永遠の栄光の中に入ると確信していました。
主イエスは、すべての教会に「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命令されました。
すべての教会、キリストを信じる者に与えられているこの御言葉を、私たちはどのように受け取るのでしょか。
パウロがその救いを喜び続けたように、私たちの内に聖霊の喜びがわき上がり、満たされ続けているでしょうか。救いがどれほどありがたいものか、永遠の命の価値がかけがえのないものであることを、わきまえているでしょうか。
静まって祈る時に、父なる神は私たちに語り掛けてくださいます。「わたしはあなたを愛している。わが子よしっかりと信仰に立ちなさい」と、静かに語り掛けてくださいます。
私たちの存在が福音の前進に役立つように、生活を見回すことは大切です。
試練は誰にでもあります。今は新型コロナウイルスの感染が大きな脅威であり、教会にとっても大きな試練になっています。
社会全体にとっても大きな試練です。困窮している人々は多いのです。
その中にあって、私たちは喜びをもって主イエスに仕え、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:4−7)という御言葉に励まされ、伝道の力をいただきます。
私たちのキリストにある喜びの信仰と生活が、多くの人々の救いに繋がり、宣教の前進となることを覚えましょう。
今は試練の時です。しかし、主イエスが共におられて、励ましと力を与えてくださいます。救いの喜びに満たしてくださいます。
信仰による勝利、キリストの勝利をさらに喜び、讃えましょう。


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