阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年7月12日
忠実な者と見なされた
Tテモテ1章12-17節

 日曜日ごとに教会に導かれ、心を合わせて真の神を崇め礼拝できることほど幸いなことはありません。今日も霊と真理を持って礼拝をささげましょう。
主イエスを信じると、その人の内なる人は変えられます。それまで、人は、罪の問題を解決できずに、苦しみます。
してはいけないことをし、しなければならないことができない。真の神と、その救いが提示されているのに、受け入れない。的外れな生き方の中に、さまよい続けていきます。
しかし、福音が伝えられ、イエス・キリストを心に受け入れると、完全に罪から解放されて、神の子とされ、新しい命に生きる者とされるのです。
私たちが生かされるためには、神の独り子、イエス・キリストの十字
架による罪の贖いがありました。それを受け入れた者の人生が変えられます。
テモテへの手紙を書いたのは、使徒パウロです。パウロは、キリストを迫害する者でしたが、復活のキリストにお会いして回心し、迫害する者から宣教する者へと変えられました。
 パウロは、キリキアのタルソス生まれで、生まれながらにローマの市民権を持ち、エルサレムで英才教育を受けた、ファリサイ派の高い地位が約束されたエリートでした。キリストを信じた者を迫害することが神の御心と固く信じていました。ところが、それは完全に的外れであったのです。主イエスとの出会いで自分の過ちを悟り、悔い改めて聖霊に満たされ、宣教者としての困難な道を喜んで歩む者に変えられたのです。
 シリアのアンティオキア教会で用いられ、3回の伝道旅行に遣わされて、多くの町々で迫害を受けながら福音を伝え、教会を建て上げました。
一方、テモテは、リストラ出身の人ですが、パウロの第一次伝道の時に救われたと思われます。母と祖母の信仰を継承しました。ユダヤ婦人とギリシャ人の父親のもとに生まれた者で、リストラとイコニオンのクリスチャンたちの間で評判の良い弟子でした。
 パウロは、テモテを非常に信頼して愛し、第二回目の伝道旅行に同行させました。パウロと共に、迫害を経験し、(参・Uテモテ3:11−12)、町々での伝道の結果、群れができると、テモテがそこに残って指導し、パウロは次に行くということを繰り返しました。テモテの指導で群れがしっかりと信仰に立つと、テモテはパウロに合流しました。(参・使徒17:14,15)。第三回の伝道旅行にもパウロに同行し、パウロがローマへ護送され、収監された時も一緒にいました。
テモテは、フィリピ、エフェソの教会で伝道者として用いられました。
パウロは、自分が主イエスを信じて救われ、罪が許されたこと、迫害する者から伝道する者に変えられたことを本当に喜び、感謝していました。
「わたしを強くしてくださった、わたしの主キリスト・イエスに感謝しています」4(Tテモテ1:12)と、心からの告白をしています。
テモテへの手紙、T、Uは、ローマの獄中から、処刑の足音が聞こえてくるような時に記された手紙です。
パウロは、自分は強くされたと告白しています。それは、神が福音を伝えるために必要な力を下さったということです。世的な力のことを言ったわけではありません。主イエスの召しを全うするための力をいただいたのは、キリストが自分を忠実な者と判断してくださったからと告白しました。
主イエスは、忠実ということを教えておられます。
ルカ15章には、見失った羊のたとえ話が記されています。
百匹の羊を持っている人がいて、その中の一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そのように主イエスは話されたのです。
羊は、その一匹一匹が大切なのです。羊飼いは朝、羊の名を呼んで連れ出し、緑の牧場、憩いの水際に導いていきます。心から羊の世話をし、安全を守ります。夕方になれば家に戻し、休ませるのです。
毎日、その勤めを忠実に果たします。一匹を見失ったら見つかるまで探し回るのです。決してその働きをおろそかにしません。そして、羊が見つかったら、喜んで肩に担いで、隣近所の人を呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」(ルカ15:6)と喜びを分かち合います。
主イエスは、迷い、滅びに向かっていく者が主イエスのもとに帰ったとき、「大きな喜びが天にある」とお教えになりました。
 主イエスこそ、魂の大牧者、良い羊飼いですが、その羊飼いの忠実さを覚えたいのです。
パウロは、以前は迫害をする者でした。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」(Tテモテ1:13)と悔やんでいます。しかし、まだ主イエスを信じていないとき知らないで行ったので、神の憐れみを受けたとあります。
そのような者であったにも関わらず、「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました」と続けました。恵みとは、受ける価値のない者に、神が一方的に下さる計り知れないほどの顧み、好意です。無償の愛です。
救いは、恵みにより、信仰によります。神は救いの代償は求めておられません。
良い羊飼いである主イエス・キリストは、ご自分が犠牲となり、十字架で人の罪の贖いを成し遂げてくださいました。一方的な恵みです。
パウロは、自分に溢れるほどに注がれている神の恵みと愛を感謝し喜び続けていました。
自分の罪の深さを知る人は贖いの尊さを知る人です。自分の罪の自覚がないと、十字架の救いと罪の赦しに対しての喜びと感激がありません。
人の罪とは、心の中の罪を言います。
主イエスは、「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:23)と、教えておられます。
ちょうどTテモテ1章9、10節に記されていることと共通します。
人は自分の心の罪と格闘しても打ち勝つことはできません。
ただ、心を開き、神の憐れみを受け入れるとき、主イエスの十字架によって罪が許されるのです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」(Tテモテ1:15)
この御言葉はパウロだけではなく、全世界の人に当てはまる御言葉です。パウロが憐れみを受けたのは、救いの見本となるためでした。
あのパウロが神の恵みにより救われた、という見本となるためであるというのです。これからイエスを信じる人々の励ましでもあったのです。
「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉と栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と、パウロは神をほめたたえました。
 私たちは、日々数えきれないほどの神の愛と恵みによって支えられています。私たちになんの勲(いさおし)がなくても、変わることのない恵みが注がれているのです。
今は主イエスに救われて神の子とされ、神を崇めながら生かされている者であり、忠実な者としての信仰の歩みを続け行きたいと願うのはすばらしいことです。
絶えず十字架の身許に身を寄せ、許される者の喜びに満たされながら、賛美と栄光を神にささげ続け、どのような時も良く祈り、御言葉に聞き、
従い続けるとき、「忠実な者、忠実なしもべ、よくやった」と御言葉をいただけるのです。
今日一日、主イエスに忠実であることを覚えて進み、また、次の日もそのように祈りながら進むときに、素晴らしい証しとなり、救われる者の見本となれることを覚えていきましょう。


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