阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年7月19日
試練の時にも
ヘブライ人への手紙11章17-19節

 今年は梅雨明けがおくれているようです。大雨が多く、西日本や各地で大きな被害が出て、まだまだ回復には時間がかかるようです。被災された方々のための祈りの手を上げ続けたいと思います。
私たちは、大雨に限らず、生きている限り、多くの試練に会います。
試練とは、信仰の試練と考えることができます。
キリスト教の国々では、イエス・キリストを信じることは当たり前ですが、キリスト教国ではない場合、信仰を持ち、キリストに従い続けるには、大きな戦いがあります。
日曜日は、主日と言います。主の日です。主イエスが全世界の罪の贖いとして、金曜日に十字架に架り、死んで葬られて、復活されたのが三日目の日曜日でした。
主を信じる者は復活を記念して日曜日に集まり、礼拝をささげるようになりました。
日曜日はイエス・キリストの復活の記念日であり、主のための日です。私たちは、主イエスを信じるまで、そのように考えてはいませんでした。日曜日は仕事や学校の休みの日であって、普段できないことをする日で、また遊興の日であり、自分自身の休息の日と考えていました。そのような中で、毎日曜日に教会で礼拝をささげることを大切にするには、自分自身の生活を整えることや、家族の反対などとの戦いがあるのではないかと思います。
信仰の戦いの第一歩に勝利して、私たちは神の召しに応じて礼拝の民とされました。
私たちには、それぞれ信仰の試練が与えられます。試練の中で神を信じ、見上げて勝利していくための試練です。
大きな試練のお手本は、イサクをささげるようにと示されたアブラハムの試練を考えることができます。
イサクは約束の子でした。神に召されたアブラハムは75歳の時、神に導かれ、故郷から旅立ちました。神はアブラハムに、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。「あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)と約束されました。アブラハムはこの時
100歳、妻のサラは90歳になっていました。アブラハムは、約束の子の誕生のお告げを密かに笑いました。しかし、「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17:19)と約束されました。時が来て、本当に一年後、イサクが誕生しました。
イサクが薪を背負うことができるくらいの年になった時、アブラハムに試練がやってきました。
神は、「アブラハムよ」と語り掛け、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)と命じられました。
アブラハムは次の日の朝早く、献げ物に使う薪を準備して、ろばに積み、イサクと二人の従者をつれてモリヤへと向かいました。
三日目にその場所が見えてきたので、アブラハムは従者に、「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」と言い残し、イサクに薪を背負わせ、自分は火と刃物を持って出かけました。
イサクは父に、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と聞きました。アブラハムは、「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えました。二人は一緒に歩いて進み、神が命じられた場所につくと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べてイサクを縛り、犠牲の動物を献げるように刃物を取りました。
その時、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」(創世記22:11、12)という御使いの声がありました。
アブラハムが周囲を見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角を捕らえられているのを見つけました。そこで、その雄羊を捕らえて焼き尽くす献げ物としてささげました。アブラハムはその場所を「ヤーゥエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付け、「主の山に備えあり(イエラエ4)と呼ばれました。
アブラハムは豊かな祝福に預かることを約束され、言ったとおりに従者たちのところへ戻り、出発したベエル・シェバに戻りました。
アブラハムは信仰によって義とされたとあります。(創世記15:6)
アブラハムは信仰によってイサクを献げました。アブラハムは、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」という約束を信じていました。ですから、神は何でもお出来になる方、イサクを献げても、生きて返して下さると信じて疑いませんでした。事実、イサクを返してもらいました。ヘブライ書は、それを「死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブライ11:19)と記しています。
信仰を持つ者で、試練のない人はいません。神は、愛する者を鍛え、訓練されるからです。
また、「父から鍛えられない子があるでしょうか」(ヘブライ12:7)とも記されています。
私たちには、それぞれの試練があります。思いもかけないことが起こるのです。
この度の九州や、各地の水害もそうです。人吉や球磨の人々は、前夜寝る前には、恐ろしい水害にあうとは思いませんでした。明け方、あっと言う間に水が押し寄せてきたのです。今はどこもかしこも泥だらけで生活再建には程遠い有様です。
また、新型コロナウイルスの感染問題も大変な試練です。
2月ころには、中国の武漢という町で感染が起こっているということでした。やがて横浜に停泊しているクルーズ船で感染が起きているということも報道されました。それでも、私たちの生活からは遠いような兆しがあったのです。しかし、兵庫でも大阪でも、また、この尼崎、伊丹、西宮でも感染者があって、身近な問題になりました。教団からのガイドラインにそって、4月19日からは、礼拝もすべての集会も休止しました。やや収まりつつあって、6月7日からSSと礼拝を再開致しました。共に集まり礼拝できるのは嬉しく、幸いなことです。
非常事態宣言が解除されて人の行き来が始まり、また、劇場そのほかが開かれて、また、感染が広がりました。非常事態宣言時よりも多くの感染者がでています。
休業が続くと、生活が成り立たないので、感染に気を付けながら、旅行も、イベントも行っていく方向ですが、なかなか難しいところです。
高齢者や持病のある人が、感染していても無症状の人から移されると、重篤化し、死に至るからです。このような中で息を潜めるように生きていくのは大変な状況です。
しかし、そのような時だからこそ、信仰によって主イエスに光を見出すことができます。永遠の命に生かされていることと、試練を乗り越えて信仰が強くされるということです。アブラハムに雄羊が備えられていたように、試練と同時に逃れる道が備えられているのです。
試練を受けなければ、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Tコリント10:13)という御言葉を体験できません。試練をくぐって後、本当に神は真実で、御言葉の通りでしたと証しができます。
私たちの心の目が主イエスからそれると、たちまちに倒れてしまいます。試練の時だからこそ、生きておられる救い主に目を注いで、目を離さない、すでに備えられている救いと、恵みに満たされ、信仰の勝利を告白し、体験する信仰者でありたいと思います。


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