阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年7月26日
主イエスのあわれみ
ルカ17章11-19節

 一週間守られて、教会に集い礼拝をささげられる恵みを感謝します。今はどうしても、新型コロナウイルス感染の問題を避けて通れません。
人が集まり、密になるとウイルスに感染してしまいます。東京でも、大阪でも、また、尼崎でもこのところ感染が広がっています。
私たちは、もっともっと真剣に祈る必要があります。どのように感染を避けていくかを、自分自身で祈りながら決めていく必要を覚えます。
人は、感染症と戦ってきました。一昔前は、結核は国民病と言われたそうです。今も結核は無くなったわけではありません。少し前に、「○○さんという方を知りませんか」という問い合わせが、伊丹保健所からありました。知らない名前でしたが、念のためどのようなことですかと、聞いたら、結核が判明した方の濃厚接触者なので探しているとのことでした。今は、結核は良い薬があり、しっかり治療をすれば完治する病気になりました。
コロナウイルスもワクチンが開発され、治療薬もできることを信じて期待します。
福音書を読むと、主イエスは救いと癒しのために巡り歩かれています。多くの人々を癒し、救ってくださいました。
主イエスは御国の福音を伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されました。また、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)とあります。
主イエスのまなざしは、弱い、苦しむ、また病む人々にやさしく向けられています。
ある時、主イエスは、ガリラヤからエルサレムへ向かわれました。当時、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑して、決して付き合うことはしませんでした。血統や、信仰が受け入れられないとして、付き合うことはしませんでした。
ユダヤからガリラヤ、またその逆のように旅する場合も、サマリアを通らないよう、ヨルダン川沿いに大きく迂回していました。
この聖書の個所では、主イエスはガリラヤからユダヤのエルサレムへ行こうとされていたのですが、ガリラヤとサマリアの境界線のあたりをたどって旅をされていました。
そこで出会いがありました。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている10人の人が出迎えました。重い皮膚病の人は、普通の人のすぐそばに来ることは許されていませんでした。少なくとも45メートルくらいは離れていなければなりません。ですから、遠くの方から声を張り上げて「イエスさま、先生、どうかわたしたちを憐れんでください」と叫びました。主イエスは彼らをご覧になり、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。
重い皮膚病が癒されているかどうかを判定するのは、祭司だったからです。レビ記14章には、重い皮膚病が癒された人について、祭司がどのように煩雑な手続きで犠牲をささげるか、どのような清めの儀式をするかが記されています。罪が許されるための手続きと同様、犠牲をささげ、大変な手続きがいりました。
 主イエスは重い皮膚病の人々に御声をかけられ、彼らは祭司のもとに出かけたのです。ところが、行く途中で癒され、清くされたことに気が付きました。
 癒され、清められたのは、体の癒しだけではなく、鎖につながれていたような悩み苦しむ心からも解放されたのです。病気のために家族とも引き離され、生きていながら死んだ者のようにしていなければならなかったのに、生き返ることができました。
 すばらしい奇跡です。やみの中から光の中へと移されたようです。
生きていく希望もなく、目的もなく、ただ体の死を待つような生活が変えられました。
驚くべき恵みです。主イエスの素晴らしい恵みを受けることができました。
その中の一人が主イエスのもとに戻ってきました。自分が癒されたのを知り、大声で神を賛美しながら戻ってきました。そして、主イエスの足元にひれ伏して感謝をささげました。
本当にうれしかったと思います。どうしても解決しない問題である、病が癒されたのですから。彼は光を見出したのです。
彼は、サマリア人でした。
主イエスは、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」(ルカ17:17)と言われました。
そして、この人に対して、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(ルカ17:19)と、語り掛けてくださいました。
この出来事から、主イエスの憐れみと恵みを覚えることができます。
 この10人の人たちは、重い皮膚病という大変な問題を抱えていましたが、主イエスを呼ぶと、答えていただくことができました。
呼ぶ者がどのような者であれ、その声は届くのです。差別はありません。ユダヤ人でも、サマリア人でも主イエスの前には関係ありません。
その人の身分がなんであっても関係ありません。
詩編50編15節には、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(口語訳)とあるのです。
 人は、病気の問題に限らず、悩みの日が続くようなことがあります。
悩みのない日はないのかもしれません。
主イエスを信じる者は、解決方法を知っている者です。
幼子のように、あの重い病気の人々が「イエス様、私を助けてください」と叫んだように、私たちも主を呼ぶとき、必ず立ち止まり、応えてくださいます。
主イエスは、救いを与えるためにこの世に来てくださいました。ちょうど重い皮膚病のような心の罪を抱えて、呻きながら助けを求めている者の声を聞き、助けの手を差し伸べてくださいます。
人は人を理解し、受け入れることができないことがあります。主イエスはその人の心、悩み、悩みのもとである罪を理解してくださいます。
主イエスは、あなたを救うために私は来たのだと語られます。
そして、求める者を癒し、罪を赦し救うお方です。
主イエスは罪ある者のためにこの世に来てくださいました。罪とは、人が心の中に持っている、自己中心の心です。罪は非常に根強く、魂の深い所にはびこります。時には罪に気が付かないほどに心をマヒさせることがあります。自分には罪などないと思うのです。重い皮膚病のようでも、気が付きません。
人と人の間がなぜうまくいかないのか、なぜ人が人を憎み、退けるのか、受け入れあい、平和に過ごすことができないでいるのはなぜか。
それは、心の中の罪によります。自分の利益を求めるのが人なのです。
主イエスは、救いようがない人の罪の贖いのために十字架に架って死んでくださいました。三日目に蘇られ、今生きて、私たちを救ってくださるのです。声を上げて助けを求めるとき、応えてくださいます。
私たちは、毎日祈りながら生活し、祈りを聞いていただいています。
主イエスに対して、どれくらい感謝をしているでしょうか。苦しい時、必死で助けを求めて、助けがあると、すっかりそれを忘れてしまうようなことがあってはならないことです。主の憐れみと恵みがわからないようなことがあっては申し訳ないのです。
これまでの恵みを思い返し、今、どのような恵みの中にいるのかを思い、またこれからも力強い御手の中に生涯導かれていることを思い、感謝をささげる者でありたいと思います。
聖書は、感謝を教えています。すべてのことに感謝することを覚えたいのです。また、感謝できることは、心の目が主イエスにあり、信仰の勝利であることも覚えたいのです
これからの一週間がどのような一週間なのか私たちにはわかりません。
主イエスが共におられ、私たちの叫びに応えてくださる日々であることはたしかなことです。
恵みと、憐れみを覚えて深い感謝をささげましょう。

「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(詩編103:2)


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