阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年8月2日
「主に仕え、人に仕える」
マルコ10章42-45節

 今日も、教会に集い、礼拝をささげられることを感謝します。
新型コロナウイルスの感染拡大が止まりません。尼崎も一昨日は10名、昨日は5名の感染が確認されました。飛沫感染を避けるために教会内でもマスク着用をお願いします。また、なるべく密を避けましょう。毎日の生活でも感染防止のために努力したいと思います。
私たちは、主イエス見いだされ、主を救い主として信じて救われ、罪を許していただいて、永遠の命をもつことが出来ました。。
この確信は、自分の内にいつも確かなものとしておくべきものです。
クリスチャンとは一体、どのような人なのかを考えるとき、それは、主イエスによって、「新生」の体験をしている者と言えます。
主イエスの命に新しく生まれた者です。新生は難しいことではありません。
主イエスが自分の罪のために十字架に架って死なれたこと、墓に葬られ、三日目に復活されたことを、心に受け入れて告白するとき、直ちに新生するのです。これは感覚的なことではなく、信仰により受け取る事実です。信仰は、神の言葉に信頼することです。
御言葉には、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)とあります。
神の子となる資格は、言、すなわち主イエスを救い主として受け入れる者すべてに与えられる恵みであり、特権です。
神の言葉にこのようにあるのに、それが信じられないとすれば、それは心にある罪と言わざるを得ません。直ちに悔い改めなければなりません。
人が救われるために、主イエスは十字架に架り、罪の身代わりとなってくださいました。罪の代価を払ってくださいました。
人は、救われ、永遠の命をいただくために、努力や修行はいりません。条件もありません。また、人の努力で救いは得られません。救いは一方的な神の恵みであり、信仰によるからです。
救われ、永遠の命をいただいた者は、少しずつ、あるいは顕著に内なる人が変えられていきます。
さて、主イエスが3回目に十字架の贖いの死と復活の予告をされた頃、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネが主イエスの許に来て、あるお願いをしました。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」というので、かなり積極的で本気でお願いをしているようです。主イエスが、「何をしてほしいのか」とお聞きになると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(マルコ10:37)と、願ったのです。
主イエスが高い地位に就くとき、自分たち兄弟を、最も高い地位においてもらいたいという願いでした。
主イエスは彼らに、十字架の苦しみについて伝えましたが、彼らは何もわからず、その苦しみも受けることができると答えました。主イエスは、彼らに自分たちの願いについて、「わかっていない」と、言われたのです。
ヤコブとヨハネは、これから主イエスが十字架に架られ、全世界の贖いのために死なれることなど理解せず、出世を願いました。
ほかの弟子はどうだったでしょうか。ほかの十人はヤコブとヨハネのこの願いを聞き、怒ったのです。心密かに自分もそのようにしてほしいと思っていたからでしょう。
そこで、主イエスは弟子たちに大切なことをお教えになりました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」
(マルコ10:42−45)
一般には、仕えるより仕えられるようになりたいというのが普通の考え方でしょう。偉くなればそれなりに遇されると思います。
しかし、御言葉と神の国は反対を教えています。主イエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうではない」(マルコ10:43)とはっきりと宣言されました。世はどうであれ、主イエスを信じる者はそうではないのだと教えられたのです。
偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさいという教えです。
主イエスの仕える姿勢は、一貫していました。主イエスが最後の食事を弟子たちとされた席で、主イエスは上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとって、たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗ってくださいました。客の足を洗うのは僕の役割です。主イエスは僕の姿になり、かがんで弟子たちの足を洗いました。そして、皆の足を洗い終わると、上着を着て、席に着かれました。そして、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:14,15)と言われました。僕として、互いに仕えることを教えられたのです。
神に仕えるとは、世に生きていながらも、神の栄光を表す者でありたいと願いながら生きることです。神の栄光は、御言葉に従って生きる所に表されます。
主イエスを心に受け入れる以前、真の救い主を知らず、自分の思いや願いのために生きていくのが当たり前でした。時には欲を満たすための生き方もありました。しかし、救われてからは、神の御言葉を聞き、御旨に従いたいと願い、祈る者に変えられました。
トウザーの聖書日課に、「あなたは愛に満ちておられる創造者である神にとって重要である。全宇宙のすべてのものにまさって神はあなたを気にかけ、あなたに呼びかけ、あなたのために恵みに満ちた計画を立てておられる」という言葉があります。
私たちは、恵みに満ちたご計画を一人一人に立てておられる方を信じます。この方の計画は完ぺきなものです。いつも、「御心がなりますように」と祈る時、わたしたちの思いをはるかに超える神の御業をみるのです。仕える心は、謙遜の心です。神にも人にも謙遜な者でありたいのです。謙遜さなど気にかけなかったような者でも、内なる人は聖霊によって変えられていきます。
主が私を愛しておられるように、キリストはこの人をかけがえのない者として、十字架に架かり死なれた。この人のために命を捨てられた。それを自分自身の思いとするときに、主イエスの謙遜に近づけるのではないでしょうか。
「わたしの目にあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛し・・・」(イザヤ43:4)と、ある通りに、神の目に一人一人が愛される存在であり、貴い存在であることがわかると、仕えることが意義あることとなります。
夫と妻が仕え合うとき、その家庭は祝福に満ち溢れるでしょう。教会の兄姉が、互いに主の目にかけがえのない尊い存在として仕え合えば、祝福に満ち満ちた教会であるといえます。
十字架の主イエスを仰ぎ見ると、主の謙遜と忍耐を覚えることができます。十字架で最大の謙遜と犠牲を表されたからです。御言葉は、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
(フィリピ2:3−8)
日々の生活の中で、主イエスに救われた者として、主に仕えること、人に仕えること、それが御心であることを覚え、仕えることの豊かな祝福に預かる者でありましょう。


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