阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年8月9日
「祈りは届く」
ルカによる福音書18章1-8節

 暑い毎日ですが、守られて今日も一緒に礼拝をささげられることを感謝します。
私たちは、神の言葉によって生かされています。霊の糧を豊かに頂き、また、自分を神に喜ばれる生きた聖なる供え物としてささげたいと思います。
主イエスは、大切なことをたとえ話で教えてくださいます。今日のテキストの個所も、主イエスのたとえ話です。
最初に、まず主イエスはこのたとえ話の目的を示してくださいました。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えるために話されたのです。
ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいました。
同じ町に、一人のやもめがいました。聖書の時代、やもめは弱い立場の人でした。生活の手段がないので、親せきを頼るか、落穂ひろいをして細々と暮らさなければなりませんでした。
やもめと、孤児、寄留の外国人は弱い立場の人々で、畑の穀物や果物を収穫するときは、全部収穫しないで、このような人々のために残すことが定められていました。(参レビ19:9,10)
裁判官とやもめの立場は、くらべものになりません。裁判官は社会的な地位と権威を持ち、しかもこの裁判官は神をも畏れない尊大な人でした。
やもめは、たぶん財産にかかわる裁判をしてほしかったのだと推測できます。やもめは裁判官を畏れずに、頻繁にやってきては、「わたしを守ってください」と懇願し続けました。それは、「わたしを公平に扱ってください」という願いでした。やもめだからといって。軽く扱われ、不利になることがないようにと願ったのです。
最初は取り合わない裁判官でしたが、やがて「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない」(ルカ18:4,5)と考えました。わたしを耐えられないほど疲れ果てさせるに違いないと思ったのです。
主イエスは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあるだろうか。言っておくが神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18:6−8)と教えられました。
主イエスは、このたとえ話で、辛抱強く祈ることの大切さを教えてくださいました。
私たちは、自分自身が抱えている問題のために祈ります。天の父は最善の答えを与えてくださいます。祈りに応えて今日まで導き続けてくださいました。
さらに、私たちは、御心がなるようにと祈ります。これは大切な祈りです。
わたしたちは日々主の祈りを祈ります。「御国が来ますように、御心がおこなわれますように、天におけるように地の上にも。」と祈ります。
御国とは、神のご支配のあるところです。神の愛によって支配される所です。
先日は、主の弟子のヤコブとヨハネが、主イエスの右左という高い地位につけてほしいと願ったところを読みました。彼らは、権力と地位が欲しかったのです。他の10人の弟子も似たようなものでした。
神の国はそうではありません。神の国にはこの世の権力も地位も、富も価値がありません。「あなたがたの間ではそうではない」と言われた主イエスのお言葉の通りです。
富と権力はしばしば争いの原因になります。平和を望まない人はいないはずなのに、平和が作り出せない原因は、富や、権力を欲しがるためと考えることが出来ます。富や権力は、神から委ねられている力と考えて神の栄光のために正しく使うべきものです。
御国が来ますようにと、祈るところに、平和が作り出されます。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)
神の愛が溢れます。真の神の愛があるところに平和があるのです。なぜなら、お互いが受け入れあい、許しあうからです。
主イエスは失望しないで絶えず祈り続けることを教えるためにこのたとえを話されました。
神の国が来ますように、御心がなされますようにと祈り続けることを教えてくださいました。
神の御心の中心は何でしょうか。神はその独り子をこの世にお遣わしになりました。それは人が御子の十字架の贖いにより、罪から解放されて救われ、永遠の命を持つためです。
主イエスは、この神の御心を熱心に、失望しないで祈ることを私たちに教えておられるのです。
神は、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲保者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自分を献げられました」(Tテモテ2:4−6)
と、教えられているように、すべての人が主イエスを信じて、救われ永遠の命を得てほしいと願っておられるのです。
その御心を祈る時、神はその叫びを聞いて下さいます。
あきらめないで、絶えず祈るようにという教えを常に覚える者でありたいと思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)と、御言葉にある通りです。
また、私たちは、「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」(Tテモテ2:2−3)
との御言葉を今年は掲げています。
私たちが祈るべき課題は、すべての人の魂の救いであることをもう一度覚えたいと思います。
あのやもめは、権力者である裁判官に対して執拗とも思えるほどの懇願をしました。
私たちは、それほどの熱意をもって、魂の救いを、福音の拡大を求めて祈っているかを考えてみなければなりません。
今、世の中は、大水害が九州や各地を襲い、新型コロナウイルスの感染が広がり、経済はひっ迫し、生きづらい様相が広がっています。
このような中で本当に大切で、必要なことは、悔い改めて主イエスの十字架の救いを受け入れることです。
世に艱難や困難は多くあります。しかし、魂の救いを持つ者は、どのような中にも神の国の平安を持ち続け、揺るぐことのない主イエスの御手の中に憩うことが出来ます。
主イエスの勝利を得ることができるのです。
詩編23編の御言葉が思い起こされます。
「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」(23:4)
永遠の命をいただき、救われた者の平安がうたわれています。
今こそ、福音の拡大を祈り、人が主イエスを信じて救われるようにと、必死に神に懇願する時ではないでしょうか。
神は速やかに聞き届けてくださいます。

「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように」(詩編22:28)
この御言葉を祈りとしたいと思います。


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