阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年8月16日
義と喜びと平和
ローマ14章17-19節

 8月第三週の聖日礼拝をささげられることを感謝します。酷暑の日が続きますが、守られていることを感謝します。
主イエスの尊い十字架の贖いを信じ、この方を救い主と信じた者は、新しい命に生きる者とされました。主イエスが十字架で死なれたように、古い自分は十字架に釘づけられ、主イエスが復活されたように、永遠の命に生きる者とされたのです。
神の国の民とされ、キリストの栄光を表すために生かされています。
神の国とは、神のご支配のあるところです。神のご支配は愛と恵みのご支配です。
ローマの教会には少し混乱があったようです。教会の信徒たちの間で、律法の食物規定に関して、疑いがあり、それが裁き合いにつながってしまいました。
ある者は、偶像に備えられた肉は食べてはならない、野菜だけ食べる。それなのに、あの人は食べているなどと、裁き合いがあったようです。
キリストによる新しい恵みによる救いの時代を迎え、律法の食物規定は拭い去られたのですが、まだそれに縛られ、こだわる人々がいたのです。
それに対して、パウロは、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(ローマ14:2、3)と教えました。
人は、自分を義とし、人を裁きたがる性質があります。自分の物差しで人を測ってしまうのです。
ローマ14:4節に、「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」とあります。他家の召し使い裁くことはできません。その召し使いの主人だけができるのです。そして、その主人は支えることが出来る方だとあるのです。
御言葉は、裁き合わないこと、つまずきになるものを置かないようにと勧めました。
主イエスが十字架に架ってくださったのは、私たちすべての者の罪を贖うためです。主イエスは、この人のために死なれたと確信するなら、決して人を裁くことはできません。キリストにより、許し合い、受け入れ合うことができるのです。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)。
人は、食べたり、飲んだりしなければ体を維持することはできません。特にこの暑さの中で水分が足りなくなって、熱中症で命を落とす人もいるのです。ですから、食物を感謝していただくのです。
これらの教えは、食べなくてよいということではなく、神の国を飲み食いのことにしてはならないということです。神の国は、自分の欲を満たすことではなく、神のご支配であると、認識すべきなのです。
神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びです。
義と、平和と、喜びが支配してくださるのです。神の義とは、神の正しさです。人の善い行いではありません。
イエス・キリストを信じる者に与えられる神の義です。人の内には神に良しとされる義はありません。
なぜなら、神は人の心をはかられるからです。人の心の中には、神を認めようとしない思い、自己中心、人を裁く思い、自分で自分を義とする思い、高慢など、罪があるからです。このような罪人を救うために主イエスはこの世にお生まれ下さり、十字架の贖いを成し遂げてくださいました。
誰でも、キリストを救い主として心に受け入れ、信じるとき、新しい命に生かされ、神に義とされるのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23)とあるように、キリストの十字架によって、恵みによって義とされたのです。
神の一方的な恵みで、神の前に義とされたことは、大きな奇跡です。
神の国は飲み食いではないということは、自分の義を、すなわち人間的な正しさを押し通すことではないことと覚えましょう。
神の国は、平和です。これは、人と人との平和の前に、神との間の平和を教えています。神との平和を得て、人との平和を持つことが出来ます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ローマ5:1,2)とあります。
神の義を与えられた者は、神との間に平和を得ることが出来ました。
先ほどの御言葉のように、この神との平和があるから、どんな困難や、苦しみ、試練があっても、希望を持ち続け、待ち望むことが出来るのです。「希望は失望に終わらない」のです。
神との平和を得た者は、神の愛がいつも注がれ、神が愛しておられることを知っている者です。
神の国は喜びです。キリストによって神の前に義とされ、平和を得た者は、喜びに満たされます。神の国にある者は、喜びに満たされます。
神はその独り子を下さるほどに、私を愛しておられることを喜ぶのです。
神の国の民であっても、試みはあります。しかし、いつも御言葉をしっかりと握りしめて、勝利します。
「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:31)と、御言葉にはあるのです。
神に義とされ、神との平和を得た者は、神の恵みの中に平安を持ちながら、神の偉大な力を知る者となるのです。
誰も敵対できない、御子と一緒にすべてのものを賜るとは、大きな勝利の約束です。
これらは、聖霊のお働きです。聖霊は私たちの内に働いて、これらのことを確信させてくださいます。
神の義と平和と喜びによって主に仕えることは素晴らしいことです。それが生きる証しとなっているからです。
聖霊によって、このようにキリストに仕えていることが、多くの人に対する素晴らしい福音の証しとなります。
歯を食いしばり、自分の力に頼っての証しはなかなか人には伝わりません。聖霊による喜びがあればこそ、人の心に恵みが届きます。
神が喜ばれるのです。そして、人々の信頼を得ることが出来ます。人々に受け入れられるのです。
19節には、「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」とあります。
神の国の民は、このように生きていくようにとの勧めです。互いの向上とは、信仰が成長するように、霊的な成長があるようにお互いに働きかけ、求め続けていこうという勧めです。
コロサイの信徒への手紙4:6節に、「いつも、塩で味付けられた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきか分るでしょう」という御言葉があります。
この御言葉は、神の国の民にふさわしいお勧めです。親切な言葉で人に語り掛け、励ましたり、勇気を与えることが出来るのです。また、キリストの救いを、生き生きとした言葉で伝えることができるのです。
神は、言葉によっても、神に仕えることでできると、私たちを励まし、用いてくださいます。
何より、私たちの内におられる聖霊が私たちに働いて、神に仕えるために日々整え、栄光のために用いてくださることを心に留めたいと思います。
聖霊によって心の奥の奥まで清められて、神に仕えられるように祈りつつ、その御業を拝しましょう。

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