阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年8月23日
「生きている水」
ヨハネによる福音書4章13-15節

 8月第4週の礼拝をささげられることを感謝します。
毎日暑い日が続きます。昨日、尼崎は37度くらいありました。日中外出すると、目がクラクラするほどの日差しです。夜間もあまり温度が下がらずに、室内でも熱中症に注意しなければなりません。
水分補給を忘れないようにという注意が、あちらこちらでされています。私たちは、いつでも必要なら、水分を補給できる環境にいることを感謝します。蛇口をひねればいつでも清浄な水が供給され、コンビニやスーパーではミネラルウオーターを売っています。
水だけではなく、経口補水液もさまざまなタイプのものがあります。
注意さえすれば、熱中症は予防できそうです。
聖書の時代のイスラエルはどうだったでしょうか。水は大変貴重でした。たいてい町のはずれに井戸がありました。井戸は深く掘って水を出すタイプと、泉のように水が湧き出ているようなところに階段をつけて降りて行って、水を汲むようなタイプがあったようです。
このシカルの井戸はどちらだったのでしょうか。ヤコブの井戸と呼ばれていて、女の人が「深い」と言っているので、掘ってあるタイプかもしれません。現在も「ヤコブの泉」と呼ばれている井戸が残っているそうです。
主イエスはユダヤからガリラヤへ行こうとされていましたが、サマリアを通って旅をされました。普通の人はサマリアは避けて旅行します。
シカルというサマリアの町のヤコブの井戸で、主イエスは座っておられました。旅の疲れを覚えておられたのです。時間は正午ころでした。
弟子たちは、町へ食べ物を買いに行きました。
当時の家には大きな水瓶を置いてあって、その水瓶を満たすために何回も井戸に水を汲みに往復しました。暑くならないうちに、また、一日使う水を切らさないよう、早朝婦人たちが水汲みをしていました。
正午頃水を汲みに来る人は、何かしら事情がある人と考えることが出来ます。
主イエスは、水を汲みに来た婦人に、「水を飲ませてください」と、頼みました。この婦人は、驚いたようです。なぜなら、ユダヤ人がサマリア人に話しかけることはないし、ましてや婦人に話しかけることは決してなかったからです。
ですから、この婦人は、主イエスに、「ユダヤ人のあなたが、サマリア人の女性である私にどうして水を飲ませてほしいと頼むのか」と、聞きました。
主イエスは、「もしあなたが神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(ヨハネ4:10)と、お答えになりました。
主イエスは、生きた水についてお話になったのですが、この婦人は井戸の水のことだと思いました。主イエスが生きた水を与えると言われたので、「あなたは汲む物を持っていないのに、深い井戸からどうやって生きた水を汲みだすのか、どこから手に入れるのか」と聞きました。
すると、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)と、教えてくださいました。すると、このサマリアの婦人は、「渇くことがないように、そして、汲みに来なくてよいように、その水をください」とお願いしました。あくまでも、「井戸の水」のことだと思っていたのです。
主イエスの次のお言葉は、水に関係のないお言葉でした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(ヨハネ4:16)と言われました。
婦人は、「私には夫はいません」と、お答えしました。
主イエスは、すべてをご存じでした。「まさにその通りだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(ヨハネ4:17、18)と、言われたのです。
ここに、早朝町の女性たちが水を汲む時間にやってこられないわけがありました。この婦人の生活は、誇れるような生活ではなかったからです。
サマリアの婦人は、自分の生活にふれられ、驚き、話題を礼拝の場所についてに変えました
サマリア人は、「この山」すなわち、ゲリジム山で礼拝するが、ユダヤ人はエルサレムが礼拝の場だと言っていると、言ったのです。
それに対して主イエスは、どこで礼拝すべきかではなく、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23、24)と、お教えになりました。
主イエスは、一人のサマリアの婦人に、生きた水について、また、真の礼拝について、本当に大切な真理を語ってくださいました。
真の礼拝とは、形式的な、うわべだけの礼拝ではなく、霊的な存在である神を、聖霊によって満たされ、その恵みを感謝し、心からの礼拝をささげることだと教えてくださいました。真の神を礼拝することは、神様が最も高く価値あるお方であることを告白し、崇めることです。
また、礼拝は神にひれ伏すことです。主イエスがお生れになったとき、東の国の博士たちは、ベツレヘムでイエスにお目にかかり、ひれ伏して拝みました。御前にひれ伏し、「あなたこそ唯一の真の神」と告白することです。
聖霊は、私たちの目を開き、神の御心を教えてくださいます。神の愛に満たしてくださいます。罪人を愛し、その独り子を賜ったほどに愛してくださる神を知ることが出来ます。そして、神に愛されている者は神を愛する者となります。聖霊の御業が及ぶのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Tヨハネ4:9、10)という御言葉が魂に迫り、神の愛によって礼拝するものとされます。
礼拝は、神の愛に対しての愛の応答であることを覚えたいと思います。
人の体の渇きは、水を飲むことで解消されます。しかし、ヤコブの井戸の水を毎日汲んでいたサマリアの婦人は、魂の渇きをどうしても満たすことが出来ませんでした。ですから、5人の夫を持っても満足せずに、6人目の夫ではない人と生活していました。
人は神に創造された霊的な存在ですから、魂は、この世のものによっては満たされません。満たされたと思っても、またすぐ渇くのです。
魂の満たしを得なければ、渇き、その渇きは続きます。
人は誰でも、主イエスが提供してくださる、生きている水が必要なのです。
生きている水とは、主イエスを救い主として信じ、受け入れる者がいただける賜物です。聖なる御霊がその人の内を満たし、泉となって溢れ、永遠の命に満たされます。
主イエスは、たった一人のサマリアの婦人に、この救いを伝えたくて、サマリアをお通りになったのかもしれません。
主イエスの目と心は、小さい者、力のない者、弱い者に向けられています。誰にも相手にされなかったような、サマリアの婦人に対して、主イエスはわざわざ語り掛け、正面から真理を解き明かしてくださいました。
主イエスの目は、私たち一人一人に向けられています。愛と慈しみのまなざしです。そして、あなたが真の礼拝者であるために、私は十字架に架ったと、語り続けていてくださいます。
心を開き、聖霊に満たされ、神を礼拝する者として整えられていきましょう。
私たちの礼拝が真の礼拝であるように、霊と真を持っての礼拝であるよう、神の賜物、生きている水、聖霊に満たされ、永遠の命を喜び、素晴らしい救いを告げ広めてまいりましょう。


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