阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年8月30日
「ひたすら祈りなさい」
コロサイ4章2-3節

 この朝も、神の臨在の中に礼拝をささげられることを感謝します。このところ、酷暑の中にも、少しだけ秋の風を感じられるようになってきました。
8月も終わりを迎えますが、守られたことを感謝します。
相変わらず、コロナウイルスの感染はとどまることがありません。気を緩めることなく、毎日の生活の中で祈りながら、何をすべきか、何をすべきでないのか、なお、導きを求めていきたいと思います。
教団からのガイドラインを、改めて確認したいと思います。
教会では、指手の消毒、マスク着用をお願いします。体調の悪い時や、周囲に発熱者などがある場合、あるいは、何か懸念がある場合は、無理をしないで、ご自宅で様子を見てください。必要なら受診をしてください。また、礼拝YouTubeを活用してください。YouTubeは、阪神チャペルセンターのホームページからもご覧になれます。(hanchape.com)
礼拝後は奉仕のほかは、できるだけ短時間でご帰宅ください。教会でのクラスターが現実のものとなっていることに注意したいと思います。
このような時であるからこそ、私たちは祈り続けていかなければなりません。主イエスを信じ、主イエスの名によって祈ることのできるクリスチャンだけが祈れるのです。
聖書は、クリスチャンに祈ることを教えています。なぜなら、祈りは、神との交わりであり、霊の呼吸と考えられるからです。祈りなしでは霊的命は窒息してしまいます。
主イエスは、地上におられる時、良く祈られる方でした。大切なことを決めるとき、一人退かれて父なる神に祈りました。12弟子を選ばれる前には、祈るために山へ行かれて、神に祈って夜を明かされました。夜通し祈られたのです。朝になり、弟子たちを集め、その中から12人を選び、彼らを使徒と呼ばれました。(参・ルカ6:12以下)
十字架の直前には、ゲッセマネの園で、父なる神に祈られました。汗を血のしたたりのように流されて祈られたのです。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)
主イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られたのです。
祈り終えられて主は、十字架へと進んでくださいました。世の罪を取り除く神の小羊となられたのです。主イエスの十字架によって、信じる者は罪を許され、永遠の救いをいただくことができました。
罪から解放されて、真の神に近づき、祈ることが出来る者とされました。
主イエスが良く祈られたように、主に救われて者は良く祈る者であることが求められています。
パウロは、コロサイの信徒への手紙を紀元62年ころローマの牢獄で書きました。パウロは、投獄されていながらも、祈る人でした。また、感謝をする人でした。
「わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています」(コロサイ1:3)と記しました。コロサイの信徒たちが、神に忠実に仕える者として成長していることを感謝しているのです。
信徒たちへの勧めとして、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」(コロサイ4:2)と書き送りました。
聖書には「目を覚ましていなさい」ということが教えられています。人が1日中目を覚ましていることは難しいと思います。これは、眠らないで目を覚ましているということではなく、真剣に、心をいつでも主イエスに向けていなさいということです。
眠りこけていると、心を主イエスに向けることが出来ません。信仰はぼやけたものになってしまいます。
祈りは、霊的な呼吸です。神との交わりです。いつも目を覚まして神との交わりを大切にしていきたいものです。天の父はそれを求めておられます。
私たちは、日々何かしらの決断をしながら生きています。小さなことから本当に重要なことを選択して歩みだしていきます。
間違った選択をしないように祈る必要があります。祈らずに決定するなと言うことです。
なぜなら、全知全能の神は常に最善を知っておられる方だからです。
私たちには明日のことはわかりません。五分後のことでさえわからないのです。しかし、神はご存じです。ですから、委ねて祈ることが出来ます。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5,6口語)
神を信じ、主イエスの御名により祈ることが出来るのはクリスチャンだけです。イエスの権威によって祈るのです。聖霊に導かれ、神の御心にかなう祈りは必ず届き、最善の時に、人の思いをはるかに超えた神の御業を見ることができます。
全身全霊で神に相対し、心をしっかりと神に向けて、神を待ち望むなら、必ず祈りが勝利となるのです。
また、聖書は、感謝をもって祈ることを教えています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Tテサロニケ5:16−18)
この御言葉はあまりにも有名な御言葉であり、この御言葉に生きるなら、それが信仰の証しとなります。
パウロは、迫害され、投獄されても、喜びも感謝も決してなくすことはありませんでした。どのような環境にあっても、神との密接な祈りがあったのです。
第二回目の伝道旅行でパウロは、御霊に導かれてマケドニアに渡りました。福音がヨーロッパに伝わったのです。フィリピの町で、主イエスを伝えて、少しづつ信じる者が増し加えられていきました。
この町で、占いの霊に取りつかれている女性の奴隷をいやしたことから、女奴隷の主人から訴えられて、捕らえられ、何度も鞭打たれ鎖につながれて投獄されてしまいました。シラスも一緒でした。
二人は一番奥の牢屋で足枷に繋がれていました。体は鞭打たれて、体の自由も聞かず、心も休まることがないと、普通は考えられると思います。真夜中ごろ、彼らはうめき声や、嘆きの声を上げたのではなく、賛美を歌い、神に祈っていました。ほかの囚人は、その声に聞き入っていました。
犯罪人であっても、祈りの声と賛美の声に心癒される思いがしたのです。
地震が起こり、牢屋の戸が全部開いても、囚人たちが誰一人逃げなかったという出来事の中、その夜、獄吏と家族は救われ、バプテスマに預かりました。
祈りは神の御手を動かし、不思議な救いの御業が現れます。
パウロはコロサイの信徒たちに、心を集中させ感謝をもって祈ることを勧めながら、自分のためにも祈ってほしいと書き送りました」。
御言葉を伝えることが出来るように、門が開かれるよう、「キリストの秘められた計画」、すなわち救いの福音を伝えられるように祈ってほしいとリクエストをしました。
牢獄にいても、なお道が開かれ、キリストを伝えられるように、祈っていたのです。体は捕らえられていても、心は神に向いていて、目を覚まして、感謝と祈りとをもって神と交わり、恵みに溢れていました。
キリストにある平安と自由を得ていたのです。
祈りの生活を真剣に大切に送りたいと思います。祈りは不思議な神の御業にあずかる素晴らしい方法です。
なお神を待ち望みましょう。


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