阪神チャペルセンター
  礼拝メッセージ
 
2020年9月6日
「ただおことばをください」
マタイによる福音書8章5-10節

 9月最初の日曜日に礼拝をささげられることを感謝します。
超大型台風が西日本、九州を襲うということですが、7月豪雨の復興もまだなのに、九州各地やその他の地域で被害がないよう切に祈りたいと思います。
 きょうは、信仰と御言葉について聖書から聞きたいと思います。
言うまでもなく、主イエスにより、罪許されて神の子となった者は、信仰によって、また、御言葉に従って生きていきます。
主イエスを信じたけれども、信仰がないということはありません。
また、自分自身の信仰の在り方について、常に顧み、祈ることは大切です。
「信仰がなければ神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神はご自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6)と、御言葉にあるように、神は信仰を喜ばれるお方です。
主イエスがカファルナウムの町に入られると、一人の百人隊長が近づいてきて、「自分の僕のいやし」を主イエスに懇願しました。
百人隊長はローマ人で、ローマの軍隊を指揮する高位の軍人でした。
聖書には、優れた百人隊長が登場します。使徒言行録10章に登場するカイサリアのコルネリウスという人も「イタリア隊」という部隊の百人隊長でした。異邦人でしたが信仰が厚く、一家そろって神を畏れる敬虔な人であり、絶えず祈る人であったと、記されています。この人のもとにペトロが遣わされ、キリストの救いを伝えると、その場にいた人々に聖霊が注がれました。ペトロ達は、救いはユダヤ人のものと思っていたのですが、この出来事を通して、主イエスを受け入れる者はだれでも聖霊を受け、救われることを確信したのです。
また、主イエスが十字架に架られた時、一人の百人隊長が十字架のもとにいました。主イエスの十字架の姿を仰ぎ、息を引き取られた時、「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)と言って神を賛美したとあります。この百人隊長も神を崇めた人でした。
マタイ8章1節から、主イエスの癒しの記事が記されています。
重い皮膚病の人が、主イエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と言いました。すると主は、手を差し伸べてその人に触れて、「よろしい、清くなれ」と言われたのです。すると、たちまち彼は癒され、清くなりました。
重い皮膚病の人は、家族や社会から隔離されて、生きていても死んだ者のように扱われました。主イエスに近づくには大変な思いをしなければなりません。だれも触れられない病気の人に、主は手を差し伸べて触れてくださいました。主は、「わたしの心だ、清くなれ」と言ってくださいました。「わたしの心」、主イエスの心は、弱い者、蔑まれている者、除外されているような者を顧み、愛してくださる心です。
癒された人は、主に対する信仰がありました。しかし、主は信仰については触れておられません。
カファルナウムの百人隊長は、自分の僕のために主イエスのもとにやってきました。
当時の僕とは、ドゥーロス(奴隷)を意味します。僕は、人格を尊ばれることはなく、自由もありません。結婚をすることも認められませんでした。主人の家でひたすら働く者で、家畜との違いは、言葉を語るということでした。
そのような身分である僕のために、百人隊長がイエスのもとにやって来て懇願しました。
「主よ、わたしの僕が中風(ちゅうぶ)で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」(マタイ8:6)と伝えました。僕はひどい痛みで苦しみながら家で寝ていたようです。
主イエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」(マタイ8:7)と言ってくださいました。普通、喜んで主イエスを家にお迎えするのではないでしょうか。
ところが百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(マタイ8:8)と答えました。
さらに、「わたしも権威の下(もと)にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします。」(マタイ8:9)と、続けました。
百人隊長の権威と言葉についての認識です。部隊では上司の命令は絶対です。「これは命令だ」と上司が言えばその通りにしなければなりません。百人隊長は自分の権威でその言葉の通りになるならば、神の子である主イエスの言葉には、最高の権威があるということを認めて信じていたのです。
ですから、「ただおことばをください。そうすれば僕はいやされます」と言ったのです。
主イエスの御言葉の権威を絶対的に信じていました。これが信仰です。
主イエスはこれを聞いて感心して、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(マタイ8:10と感嘆されたのです。
主イエスは、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(マタイ8:13とお声をかけてくださいました。ちょうどそのとき、僕は癒されたのです。痛みからも体のマヒや震えからも解放されました。
わたしたちの信仰はどのような信仰でしょうか。信仰は、神の言葉は真理であり、神の言葉は必ずその通りになると信じることです。御言葉を愛し、期待し、待ち望むことです。
神の言葉が日々豊かに与えられていることを感謝します。私たちには聖書が与えられています。
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:14)とあります。御言葉は、私たちの口と心にあります。近くにあるのです。ですから、御言葉によって生きることが出来るのです。
この申命記の御言葉は、ローマの信徒への手紙に引用されています。「御ことばはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死人の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
(ローマ10:8−9)
主イエスの救いの約束である御言葉を心で信じ、口で告白すること、これが救いの条件です。他には何も必要としません。救いに条件はないのです。また、ほかには真の救いはありません。
私たちは、日々御言葉を愛し、御言葉をしっかりと受け入れ、より頼むことが大切です。御言葉には権威があります。必ず成就します。
また、心に御言葉を蓄えることは大切です。日曜学校で子供たちが御言葉を暗唱することは本当に素晴らしいことです。人生の糧となり、正しく信仰の道を歩むことが出来るからです。
「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました」(詩編119:11口語訳)と詩編には歌われています。御言葉が正しい信仰の生活へと導きます。
また、御言葉に生きる信仰を求められています。
ヤコブの手紙は、御言葉を聞いても行わない人は、生まれながらの顔を鏡に映して自分の姿を眺めても、立ち去るとそれがどのような姿かすぐに忘れるようなものと辛らつに記しています。
そして、心に植え付けらえた御言葉を受け入れること、御言葉を行う人になることを教えています。
「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)
主イエスと、その御言葉には絶対的な権威があることを固く信じ、待ち望む者でありたいのです。
わたしたちの生活の中で主イエスのすばらしい奇跡が表されます。それが信仰の実となり、多くの人々への証しとなることを覚えましょう。
主イエスは生きておられて、私たちの手を取り、日々導き続けてくださいます。自らの信仰を顧み、さらに信仰の高嶺へと導かれてまいりましょう。


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